道路標識の多文化化

    先週車の運転免許証の書き換えに行って来た。これでやっと“ゴールドカード”に戻った。特に交通違反をしたわけではなかったのだが、オーストラリア在住中に前回の免許更新期限が過ぎてしまい、失効。再発行手続きを経て、3年期限の“ブルーカード”保持者となっていたのだ。

    その再発効時に体験した手続きはとても面倒で。失効期限時に本当に日本にいなかったかパスポートを精査され。加えて在外だった際に外国で運転免許が継続されていたことを証明するものの提示を求められ、その日偶然豪州の免許証新旧3枚を持ち合わせていたので、それを見せ。ところが、当たり前だが記載は英語でなので係の人が有効期限などを読み取るのに時間がかかり。更に豪州では州によって発行されている運転免許証のデザインが違い、私はニューサウスウェールズ(NSW)州からヴィクトリア(VIC)州に途中で引っ越したので、見た目の違う免許証2種類を豪州のものと言って示したものだから混乱。

    これだけ人がグローバルに移動する時代。在外者の免許の書き換え、もう少し楽にならないものか。豪州は右ハンドル、左側通行で日本と同じ。道路標識も似ている体裁のものが多い。そもそも道路標識にはそれほど複雑なことは表現しないし、多くの文字を書くことも稀だろう。因みに豪州(NSW州の場合)では、日本の運転免許証なら、それに公的な英訳をつけて免許証の発行所に持って行くと、現地の免許証を即発行してくれる。日豪間では交通ルールが大きく違わないことが根拠の一つなのだろう。日本でも交通ルールがさほど変わらない国の免許証との互換性をもっと持たせたらいいのになぁ、と思う。

    ところで、道路標識と言えば、去年の12月に向こうでちょっと注目を集めた議論がある。観光大臣のリチャード・コルベックが年明けの各州の観光大臣が一堂に会する会議で、道路標識をマンダリン(標準中国語)に翻訳することを提案してみようと思う、と発言したことが賛否両論を巻き起こした。

    先回の当ブログで最近は中国から観光で豪州を訪ねる人が飛躍的に伸びている話に少し触れたが、2014年から2015年にかけて中国からの観光客の数は22%の伸びを見せ、豪州にもたらす経済効果は絶大なものとなっている。そして、最近では観光バスで回るお仕着せのツアーではなく、自分でレンタカーをして豪州を見て回る、所謂テイラーメイドの旅をする人たちが増えて来ているそうで、それであれば更にお金を落としてもらうためにも、中国人フレンドリーな道路標識導入を、という発想らしい。

    これに対し、訪ねてくれるお客様へのホスピタリティとして当然やるべき、良い案だ、という人もいれば、ここは英語ベースの国。観光に来るなら、英語を学んでくるべきだ、と反対する人も。そもそもなんで中国語だけなんだ?観光客には日本人だってベトナム人だっている、と主張する人も。一方で、我々が欧州を旅して英語の標識を見ることは少なくない。であれば、我々が英語以外の標識を設置することは何ら奇異なことじゃない、と指摘する人も。

    そんな論争を聞きながら、日本のことを思い浮かべていたのだが、標識、ということで言えば、もうかなり前からあちこちに英語表記の標識はあり、最近では電車などの行先に日本語、英語、北京語、そしてハングルの4種類の文字が記載されていることも。標識に関しては、日本の方がオーストラリアより多文化化が先行していると言えるのかもしれない。

    もちろん、今回の豪州での話は税金を投入して実施することなので、私的企業がその会社のサービスの一環としてやることとは若干論点が変わって来ることもあるだろう。が、やはりこの議論の底には、豪州社会に当たり前のように存在する“英語中心主義”の発想があるように思える。反対者の中には英語は世界の“共通語”だから、皆読めて当然という想いがあり、逆に賛成者の側には中国の人たちは英語は読めないだろう、という思い込みが潜む。

    ここで言っているのは、地名、例えばシドニーをSydneyではなく、悉尼、と書きましょう、というレベルのことも含んでおり、果たして本当にわざわざ中国語表記にする必要があるのかどうか…。更なる検討が必要なのは間違いない。何より、まず“お客様”の要望を聞くことが先だと私は感じるが。

    この件、その後どうなったのか…。行方を注目して行きたい。



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Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。