「“ちゃんと”出来て当たり前」ではない社会

 先月、渋谷ヒカリエで開催された「超福祉展(2020年、渋谷。超福祉の日常を体験しよう展)」というイベントに参加して来た。これは2014年から一年に一度開催されている、障害を持つ人たちやLGBTの人たちなど、所謂社会的弱者=マイノリティの人たちも含めた、多様性のある社会を築いていくための情報発信イベントだ。なので、もちろんマイノリティの人たちの参加が多くあるが、どちらかと言うと、マイノリティではない人たちに対して、多くのメッセージが発信されているイベント、という印象を私は受けた。

 一週間に亘り、数々の体験イベントやシンポジウムが開催され、私はセッションを3つだけ覗かせてもらった。その中で特に「『注文をまちがえる料理店』と『認知症』」という5日目に開催されたセッションには、オーストラリア社会との関連で、大いに興味をそそられた。
 「注文をまちがえる料理店」とは、注文をとり、配膳をするホールスタッフさんたちが、皆認知症を抱える人たちのレストランのことだ。よって、注文を間違われることもある、という意味を含んだ店名だが、このユニークなお店の仕掛人はテレビのディレクターが本業の小国士朗さん。

超福祉展のセッションで語る小国さん

仕事で名古屋にある認知症のお年寄りが共同生活を営んでいるグループホームを取材したことがきっかけで、そのようなレストランを企画するに至った。

 レストランは常設店ではなく、既存のレストランを会場にしたポップアップ店舗。今年6月に極々こじんまりと、小国さんや実行委員会の委員の人たちの知り合いなどを招いて1日だけ開催したところ、瞬く間にツイッターなどで情報が広まり、その日は遂にキーワード「注文をまちがえる料理店」がトレンディングの1位になってしまったのだとか。そしてそれは海外でもニュースになり、その後取材も殺到した。オーストラリアでも多文化チャンネルのSBSなどが、この話を取り上げている。

7月4日付SBSネット記事(スクリーンショット)

 その好評を受けて、その後クラウドファンディングで資金を集め、9月の「世界アルツハイマーデイ」(9月21日)に合わせて、2日程再度開店。両日とも満席になるほど評判を呼び、現在、今後の展開の案を練っているところらしい。
 このニュースの国境を越えた広がり方は、認知症の問題がグローバルな問題であることを示しているが、同時に一般の人たちの認知症に対する知識、認識が、これも国境を越えて必ずしも充分でない現状も浮き彫りにしているように思う。だからこそ話題になるのだろう。そのような実態に切り込んだのが「注文をまちがえる料理店」の試みだと感じる。

 「注文をまちがえる料理店」の主役はもちろんホールスタッフを勤める認知症を患っている方たちだ。しかしそれ以上にこの料理店は認知症のない側、つまり一般の人たちの意識改革に一役買っているのだ。「認知症」という言葉は日常的に聞くが、実際にそれはどんな状態になることなのか、どんな病なのか…。周りはどう接すれば良いのか…。「認知症」という言葉のポピュラー度に比べて、案外知られていない。
 実際小国さんも最初にグループホームを取材することになった時には、認知症についての知識は乏しかった。記憶がなくなる、徘徊をする…など漠然とネガティブなイメージしか持っていなかったのだそうだ。それが、その時密着をしたグループホームの主催者で、介護のプロの和田行男さんとの交流を通して、次第に認知症に対する知識が深まり、認識が変わって行ったのだとか。そして、のちのレストラン開店に繋がったのは、ある日のお昼ご飯の時の出来事だったそうだ。
 食事は入所している人たちが食材を買いに行き、そして自分たちで料理をするのだが、その日の献立はハンバーグ、と聞かされていたのに、実際に出て来たのは餃子だったのだそうだ。小国さんは思わず、今日はハンバーグでしたよね?と間違いを指摘しそうになったが、他の人たちはヘルパーさんたちも含めて、そのことを問題にする人はおらず、みんな美味しそうに、そして楽しそうに食事をしていた。その光景を目にして、小国さんは献立の間違いを指摘する言葉を飲み込んだ。その穏やかなムードを崩したくなかったからだ。そして、間違ったっていいじゃないか、ハンバーグだって、餃子だって、美味しければいいじゃないか、と思うに至ったのだそうだ。
 この体験が原点となり、一般の人たちに自分と同じように認知症を患う人たちのことを知ってもらう、気づいてもらう、身近に感じてもらう、そのような場を提供する目的で「注文をまちがえる料理店」を立ち上げたのだ。

 そのような小国さんの「注文をまちがえる料理店」に関わるエピソードを興味深く聞きつつ、これは何か自分が見て来た世界と共鳴するものがある、と客席にいる私は感じていた。「注文をまちがえる料理店」で展開された、必ずしも想定されていたこと、約束されていたことが“ちゃんと”実現するとは限らない、そして多少思ったようにコトが進まなくってもそれが許容される世界は、誤解を恐れずに言えば、オーストラリア社会そのもののような気がしたのだ。
 そう言うと、オーストラリアの人たちには、我々の社会はそんな間違いばかりが起こる社会ではない、ちゃんと秩序立って回っている、と叱られそうだが、しかし、私が体験したオーストラリアは想定外のことがしばしば起こるところだった。留学した当初は、その想定外のことが起こる度にあたふたし、イライラし、怒った。そして、お店だったり、郵便局だったり、はたまた移民局だったりにしょっちゅう“ちゃんと”コトが処理されないことへの苦情を言っていた。
 ところが、怒ってみても、糠に釘、暖簾に腕押しで、効果がないどころか、ヘタをするとこちらがクレーマーか、モンスターカスタマーか、というような扱いを受ける。結果、だんだん時間と労力の無駄なので、あちこちで好戦的になるのは控えるようになった。“ちゃんと”出来ない人たちに向かっていくら気色ばんでみても、独り相撲だ。そしてそうなってよくよく考えてみると、まぁ、それほど気色ばむほどのことでもない、と思えることが多々あることに気が付いた。更に、人間は誰しも完璧ではないという当たり前の事実、そして怠慢でやらないのではなく、頑張っても“ちゃんと”出来ない人たちだっていることが目に入って来た。そして、本質に関わることでなければ、流してもいいんじゃないか、と思える境地に至った。これは小国さんが“ハンバーグが餃子になってしまった事件”で体験した気づきと、それほどかけ離れたものではないように思う。
 翻って日本のことを考えると、“ちゃんと”出来ることへの期待値がとても高い社会だと感じる。昨今の社会情勢を見ていると、今となってはそれは幻想なのではないか、と感じることも多いが、基本、日本人だったら“ちゃんと”出来るはず、というコンセンサスが社会にある。そしてそれは、“ちゃんと”出来ない人たちが生きにくい社会を作り上げているのではないか。その”ちゃんと”出来ない人たちには、確かに努力をせず出来ない人もいるだろうが、能力的に頑張っても出来ない人たち、障害を抱えていたり、認知症を患っていたりするようなマイノリティの人たちも含まれているのだ。これから日本がマイノリティの人たちも包摂した多様性社会を作っていくのなら、社会として、“ちゃんと”出来ない人たちや、間違いを起こすこと自体に対する許容度が、もっと高まっていかなければならない。「注文をまちがえる料理店」は、正にそのことを提示していたのだと思う。

小国さんの取り組みは、あさ出版で書籍化された

 その目で見てみると、日本の一歩も二歩も先を行っているように見えるオーストラリア社会から日本が学べることは多いだろう。もちろんオーストラリアが完璧な“ちゃんと”出来ない人たちの理想郷だ、と言っている訳ではない。オーストラリアにだってマイノリティに対する不寛容、不正義はある。しかし、“ちゃんと”出来ることに対する一般の人たちの期待値は、明らかにオーストラリアでの方が低い、というのが私の体感だ。
 そのような社会の最大の効用は、と言えば、それは自分がついついミスを犯してしまった時に必要以上に委縮する必要がないことだ。相手のミスを許す社会では、自分が“ちゃんと”出来なかった時も許容してもらえる。先ほども書いたように、完璧な人間というのはまずおらず、“ちゃんと”やろうと努力していたのに、外してしまった…という体験は、実は日本の人でも多くの人がしているだろう。想定外のことが山盛りで、“ちゃんと”した社会の日本から行くと、ストレスを感じることも満載のオーストラリアだが、そのつい…の時に本当に精神的に救われる。他の人が“ちゃんと”出来ないことへの許容度を上げれば、自分も楽になるのだ。
 “勤勉な”日本の人たちは、少~しリラックスする方法を学んだらいいのではないかなぁ、と「注文をまちがえる料理店」の話を聞きながら思った。自分のためにも。

多摩動物公園でどこまでもリラックスしている
オーストラリアの動物たち

Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。