メルボルン-世界で一番住みやすい都市??

 8月半ば、猛暑の東京を脱出して、真冬のオーストラリアへ行って来た。元来寒いのは苦手なので、あまりこの時期にオーストラリアを訪ねることはしないのだが、シドニーに用事があったので、シドニー、そしてメルボルンを回る旅を決行した。両地はどちらも運よく好天で、日中は汗ばむほどの陽気。でもまだ風はひんやりと爽やかで、とても気持ちの良い天候に恵まれた。結果的に猛暑から逃れる避暑旅行となった。
 最初の一週間シドニーに滞在し、その後向かったメルボルン。午前中に吹いた強風のせいでフライトが30分程遅れるトラブルがあったが、ほぼほぼ順調にメルボルン空港へ到着し、市内へのシャトルバス、スカイバスに乗り込んだ。
 もう夕方5時頃だったので、ホテルに着いたら、すぐスーパーに必要なものを買いに行って、夕食だなぁ、などということを考えつつ、バスに揺られていたのだが、市内が近づき、見覚えのあるビル群が見え出した辺りで、あれぇ?と思った。メルボルンってこんなに高いビル、一杯あったっけ?

スカイバスの車窓から(2019年8月撮影)
スカイバスの車窓から(2019年8月撮影)

 メルボルンがどんどん開発を進め、高層ビルが増え、町が拡大していっているのは、6年前までそこに住んでいて、一部目の当たりにしていたし、去年も訪れて同じ町を見ている。それだけに、市の中心部に以前よりビルが詰め込まれているようにも見える光景にちょっとびっくりしてしまった。

 メルボルンと言えば、ビクトリア州の州都で、シドニーに次いでオーストラリアで二番目に大きい人口を抱える。オーストラリア人の知人の言葉を借りれば、元々はシドニーの「妹」のような立場にあった都市だ。
 オーストラリア大陸の英国人による植民地化が始まったのは1788年のことだが、その入植は今「サーキュラー・キー」と呼ばれるシドニー湾内の埠頭の辺りから始まっている。因みに、サーキュラー・キーは、あの言わずと知れたシドニーのアイコン、ハーバーブリッジと、オペラハウスに挟まれたエリアに位置する。

真ん中辺りが「サーキュラー・キー」(2019年8月撮影)
高いビル群の麓辺りが「サーキュラー・キー」(2019年8月撮影)

 キャプテン・クックが、西洋人にとって未知だったオーストラリア大陸の東海岸を「エンデバー号」で探索し、大陸の東半分を英国領と宣言したのは1770年。その時その英国領となった部分はニュー・サウス・ウェールズ、と名付けられたが、1788年にシドニーから入植が始まった際に、そこはニュー・サウス・ウェールズ植民地、となった。つまり今ビクトリア州となっているオーストラリア大陸南東の先の部分は、当初はニュー・サウス・ウェールズ植民地の一部だったのだ。
 その後、シドニーを拠点に陸路、また先に植民の進んでいたタスマニア植民地からは海路で現在のビクトリア州方面を目指し入植する動きがあり、フィリップ湾に注ぎ込むヤラ川の河口に町が形成されて行った。その地がメルボルンと命名されたのは1837年のこと。そして、1851年、ニュー・サウス・ウェールズ植民地から切り離される形で、メルボルンを中心とするビクトリア植民地が誕生した。
 このような歴史的背景から、当初はシドニーがメルボルンの上に立つ関係にあった。古参のシドニーに、新米のメルボルン、と言った構図か。しかし、同じく1851年にオーストラリアでもゴールドラッシュが始まり、特にビクトリア植民地の金鉱が栄えたことでメルボルンは巨大な富を得て、その後シドニーを凌ぐ勢いで発展して行くことになる。
 そして、1901年に6つの植民地が結集し、オーストラリア連邦という新しい国家が誕生。その際には、シドニーとメルボルンのどちらが首都の座に就くかで、両者の間でいざこざがあったと言われる。オーストラリアの首都がシドニーとメルボルンの間の地、キャンベラにあるのはそのためだ。キャンベラは、当初より首都にすべく建設された計画都市だ。
 そのキャンベラが正式に首都として機能するようになる1927年までオーストラリアの仮の首都だったのはメルボルンだし、建国後初の議会が開かれたのは、1880年の万博開催の会場として建設されたメルボルンのロイヤル・エキシビション・ビルディングでだった。

ロイヤル・エキシビション・ビルディング。2004年にユネスコの世界遺産登録がなされている。(2013年5月撮影)
ロイヤル・エキシビション・ビルディング。2004年にユネスコの世界遺産登録がなされている。(2013年5月撮影)

 更に付け加えると、オーストラリアとオリンピックと言うと、2000年のシドニーオリンピックを思い浮かべる人が多いのではないかと思うが、オーストラリアで最初に開催されたオリンピックは、メルボルンがホスト都市となった1956年大会だ。このように、19世紀中盤以降、メルボルンは姉のシドニーを凌いでオーストラリア一番の都市であったように見える。しかし、なかなか妹が姉を越えるのは容易なことではない。
 やはりシドニーは近代国家オーストラリアの発祥の地であるし、人口も一番。ビジネスの活況もあった。そして何と言っても、元々地形が風光明媚である湾に、1932年にハーバーブリッジ、そして1973年にオペラハウスがオープンすることで、世界三大美港の一つとして国際的に認知され、シドニーはオーストラリアのアイコン都市であり続けた。
 そんなシドニーにメルボルンっ子は常に対抗意識を抱いているようだ。事あるごとにシドニーと比べ、メルボルンの方が優れている、と主張する。シドニーにあるのはビジネスだけ。シドニー湾の美しさは、あれは努力して作ったものじゃない。それに比べてメルボルンには文化がある。努力して作った町の美しさがある、と。つい先日Love AustraliaというFacebookページが投稿した内容が正にそのようになっている。

2019年9月20日付、Love AustraliaのFacebook投稿(スクリーンショット)
2019年9月20日付、Love AustraliaのFacebook投稿(スクリーンショット)

「メルボルンの魅力は、派手な姉のシドニーより、繊細な感じかも!」と言っている。

 このように、長らくメルボルンっ子には無意識の内に何かシドニーに対する対抗意識、あるいはコンプレックスを抱えて来たように見えていた。ところが、その潮目が遂に変わったかな?と思わせるような変化が近年起こっている。
 きっかけは、2011年の「世界で一番住みやすい都市」ランキングで、メルボルンが一位に輝いたことだったように思う。「世界で一番住みやすい都市」ランキングは、英国のエコノミスト誌のインテリジェント部門が独自に毎年発表しているものだ。昨年、そして今年と、トップの座をオーストリアのウィーンに譲り二位になったものの、それまで7年連続トップの座を守ったのは大したものだ。

メルボルンが7年連続で「世界で一番住みやすい都市」に選ばれたことを伝えるABC News(2017年8月16日付、スクリーンショット)
メルボルンが7年連続で「世界で一番住みやすい都市」に選ばれたことを伝えるABC News(2017年8月16日付、スクリーンショット)

 最初にこのランキングの結果を聞いた時、私はちょうどメルボルンに住んでいて、新しい交通ICカードが全然まともに機能していないことや、日々の公共の交通機関がちゃんと走らないことなどで生活の不便さを感じていたから、なぜメルボルンが?と思ったものだ。しかし、確かにメルボルンには公園も多く緑に溢れているし、そこそこ魅力的なレストランやカフェもある。ファッションもシドニーよりメルボルン、と言われていたし、アーティストが集まる町であることも事実。そして何より安全な町だったので、ランキングの結果は理解出来た。
 それでもメルボルンはシドニーと自分を比較することは放棄しなかったけれど、前以上にメルボルンが一番!というムードが溢れ、目に見える形で町が拡大の一途を辿るようになったと感じた。その頃から、市内を流れるヤラ川の河口に向かう河岸のエリアに、どんどん新しいオフィスビルや高層マンションが建ち始めていた。

ヤラ川にかかるプリンセス橋から河口の方(西方向)を向いて。高層ビルが立ち並び、建設中のクレーンもいくつも見える(2019年8月撮影)
ヤラ川にかかるプリンセス橋から河口の方(西方向)を向いて。高層ビルが立ち並び、建設中のクレーンもいくつも見える(2019年8月撮影)

 そしてこの8月に空港から市内へ向かうリムジンバスの中から見えたメルボルン市は、更に大きくなっているように見えた。
 その後一週間メルボルンに滞在したが、市内はあちこち改装工事が行われていた。馴染みのカフェは改装中で臨時休業。お土産物屋さんは営業はしているが、外壁はビニールに覆われていて、こちらも改装中。更に、市内だけでなく、私が以前住んでいた住宅街も例外ではなかった。メインの道路から徒歩5分くらいのところにあった我家までの間にも、昔からあった一軒家が取り壊され、新しい家の建築が進められているところが3ヵ所はあった。
 なんというのか、私の世代だと、1980年代後半の日本のバブル期に聞いた、「いけいけどんどん」という言葉が思い浮かんでくるような発展ぶりだ。私はシドニーの変化は1970年代から少しずつ見て来たが、その半世紀近い年月をかけてシドニーで見て来た変化が、メルボルンではこの5,6年で一気に起こってしまったように感じた。あちこち綺麗になって、素敵と言えば、素敵なのだが、正直言って、ちょっと疲れてしまった。とても勝手なことを言えば、第二の東京はいらない、という感情か…。
 これは、こうやってたまに休暇で訪れる者の勝手な言い分であり、また昔は良かった的な私のノスタルジアに過ぎないのだろう。この発展ぶりをメルボルンっ子たちはきっと誇らしく思っているのだろうなぁ、と思っていた。
 ところが、実はそうでもないことを、ちょうど帰国してほどない頃に行き当ったABC MelbourneのFacebook投稿に付けられたコメントを読んで知った。その投稿は、3年後の完成を目指して建設が進められるメルボルン市内を縦断する地下鉄工事のため、その翌日からメインのフリンダース駅近くの道路が閉鎖されることの告知がメインのメッセージだったのだが、同時に「3年後のメルボルンはどんな町になっていると思う?」と問いかけているものだった。

2019年9月4日付のABC MelbourneのFacebook投稿(スクリーンショット)
2019年9月4日付のABC MelbourneのFacebook投稿(スクリーンショット)

 私は咄嗟に、過剰開発されて、人が溢れ、ホームレスの人たちが増えている、と思ったのだが、きっとメルボルンっ子は、その発展を好意的に捉えているのだろうと思いつつ、コメント欄を読んでみた。そうしたところ、私と同様に現在の開発過多を憂えているコメントが多いではないか。そうか…地元の人たちも私と同じように思っている人が結構いるのか…。ちょっと安心した。
 私の第一の懸念は、町が東京のように忙しくなってしまい、オーストラリアの良さののんびり感が消えてしまうことだが、同時に今回以前よりホームレスの人たちが増えたように見えたのがとても気になった。
 もちろん、前々からメルボルンにもホームレスの人たちはいた。しかし、今回は、改装工事が行われている店舗の角、角にホームレスの人たちが座っている感じで、前よりも数が多くなったように見えた。彼らは自らの窮状を段ボールの切れ端に書いて掲げ、物乞いをしている。通行人に声を掛け、小銭をせがんでいる人もいる。その光景と、アップグレードすべく改装工事の幕を巡らされた周囲の店舗とのコントラストが非常に目についた。

メルボルン市内の目抜き通りスワンソン・ストリートの光景(2019年8月撮影)
メルボルン市内の目抜き通りスワンソン・ストリート。新しいタピオカドリンクのお店の前にホームレスの人が...(2019年8月撮影)

 ある知人によると、最近近くのフリンダース駅のホームレスの人たちが集まり寝起きしていた一角が閉鎖され、そこにいた人たちが町中に流れて来ているという話があるとのこと。人が増え、町が発展して行くと、世知辛い社会になってしまうのは世の常なのか。
 何をもってして「世界一住みやすい都市」なのか…。メルボルンの前に訪ねたシドニー、そして自分が住む東京も「世界で一番住みやすい都市」ランキングのベスト10に入っているだけに、そのことを考えさせられる旅となった。次回メルボルンを訪ねた時にあの町がどのようになっているのか。ちょっと怖く感じている。相変わらずICカードが引っかかったり、トラムの運行が急に止まったりしてくれた方が案外心の平穏が保てるような気がしてならない。

ここ数年開発が特に著しいメルボルン・ドックランズ周辺の夜景(2019年8月撮影)
ここ数年開発が特に著しいメルボルン・ドックランズ周辺の夜景(2019年8月撮影)






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Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。