オーストラリア炎上【前編】

 2月16日日曜日、シドニーのANZスタジアムで恐らくこの手の音楽イベントとしてはオーストラリア史上最大だったのではないか?と言われている「Fire Fight Australia」というコンサートが開催された。題名から容易に想像出来るように、昨年来オーストラリアを襲っていたブッシュファイアー(森林火災)被害救済のチャリティーコンサートだ。

QueenのオフィシャルフェイスブックページよりQueenのオフィシャルフェイスブックページより

 1月に入って開催がアナウンスされ、13日に発売された65,000枚のチケットは、5時間で売り切れ。追加のチケット発売もあり、ANZスタジアムの通常の収容人数を考えると、75,000人の人たちが現地へ足を運び、その模様はチャンネル7が生中継をしたので、多くのオーストラリアの人たちがこのコンサートを体験したのではないだろうか。そして、私のように海外にいるオーストラリアに縁のある者は、ライブ当日ツイッターをフォローすることで会場の様子をリアルタイムで知り、演奏の一部を視聴することも出来、遠くからこのイベントのライブ感を少し体験することが出来た。
 午後12時45分、オーストラリア先住民のWelcome to countryという、彼らの土地に外の人間を招き入れる儀式の演奏、踊りで幕開け。

Welcome to countryの一シーンWelcome to countryの一シーン(スクリーンショット)

 オリビア・ニュートン・ジョンとジョン・ファーナムが締めるまで、なんと10時間という長丁場のイベントとなった。出演したアーティストはザっとプログラムを数えただけでも25組に上る。
 その中で特にオーストラリアのみならず世界的に注目を集めたのは、Queen+Adam Lambertだ。ちょうど彼らのオーストラリア・ツアーに引っかかる日程で、それで出演の依頼が行き、快諾されたんだろうな、と当初思っていたのだが、どうも話は逆らしい。バンド側はオーストラリア・ツアー中に今回のブッシュファイアーの被害救済に何か貢献したいという意向を持っていて、それをオーストラリアの招聘元と検討する中で、2月15日に彼らのライブがANZスタジアムで予定されていたため、終了後セットを解体せずそのまま残し、翌日そこで大規模コンサートをやる案が浮上したのだそうだ。
 少し話は横道に逸れるが、当日Queenは伝説のステージともなっている、1985年の英国ウェンブリースタジアムでのLIVE AIDでのセットリストをそのまま再現する演奏をした。大ヒットとなった映画「ボヘミアンラプソディ」のラストに登場した、あのコンサートだ。

We Will Rock You

We Are The Champions

LIVE AIDも今回のイベントもチャリティーコンサートだし、一昨年から昨年にかけての映画のヒットがあるし、何と言っても国内ツアー中でQueenがオーストラリアで盛り上がっていることもあったし、LIVE AIDのセットリストの史上初(とバンドのフェイスブックには書かれていた)の再現は実に絶妙なアイディアだったと思う。
 ギタリストのブライアン・メイは長い一日の締めくくりのセットにも登場し、このブッシュファイアーと生身で戦って来た消防士たちもステージ上に招いての最後の曲「You’re the Voice」で再度ギターを演奏した。この曲は、トリをオリビア・ニュートン・ジョンと共に務めたオーストラリアのベテラン歌手、ジョン・ファーナムのオーストラリアの非公式な国歌とも称される持ち歌だ。会場が大合唱となったのは言うまでもないが、この曲にアボリジナルの歌詞を載せたバージョンを最近リリースした、自らもアボリジナルのアーティスト、ミッチ・タンボも登場。アボリジナルの管楽器ディジュリドゥの演奏も交えての渾身のパフォーマンスが更に75,000人の観衆を熱狂させたように感じた。

ミッチ・タンボのパフォーマンス(2020年2月17日付、シドニー・モーニング・ヘラルド紙</a>のスクリーンショット)ミッチ・タンボのパフォーマンス(2020年2月17日付、シドニー・モーニング・ヘラルド紙のスクリーンショット)

 このラストの演奏部分は録画状態が良い公式な動画がリリースされていないため、残念ながらここでシェアすることが出来ないのだが、観客がスマホで撮影し、you tubeにアップしている動画を見てみると、曲の途中でバグパイプの演奏も含まれていたことがわかった。なんで?と思う人もいるかもしれないが、英国の植民地だったオーストラリア。白人系オーストラリア人の中には、スコットランドに縁を持つ人が多くいる。(またまた余談ではあるが、オーストラリアが生んだ最大のロックバンドと言われるAC/DCの1975年リリースの曲「It’s a Long Way to the Top」では、今は亡きボーカリスト、ボン・スコットがバグパイプを演奏している。ロックでバグパイプが使われたのはあれが初めて、と言われているが、スコットはスコットランドからの移民だ。)このラストの大盛り上がりから、宗主国(英国)と植民地(オーストラリア)、先住民と入植者、そして君主(クイーン)が絡み合う、オーストラリアの複雑な歴史と政治を読み取ってしまったのは私だけだろうか。

 あっという間に売り切れたFire Fight Australiaチケットの売上金はもちろん全額寄付に回されたが、コンサート当日も寄付を呼びかけ続け、あの日一日で985万ドル(約7億2千7百万円)の寄付を集めることが出来たのだそうだ。

 ブッシュファイアーのことは、私はいつも「オーストラリアの夏の風物」と言って来た。乾いた大地のオーストラリアで、夏にあちこちでブッシュファイアーが発生するのは毎年お決まりのことだ。確かにこれまでも1994年のシドニー近郊のブッシュファイアーや、2009年の「ブラック・サタデー(暗黒の土曜日)」と呼ばれているヴィクトリア州のブッシュファイアーなど、大火もいくつかあった。

1994年のシドニー近郊の大火を特集した写真集1994年のシドニー近郊の大火を特集した写真集

しかし、今回の火災はこれまで聞いたことがないような長期間、かつ広範囲に及ぶもので、「風物詩」などという情緒のある表現は全く当てはまらないものだった。そして、自分の直接の友人たちのことを心配しなければならない事態に陥ったのも今回が初めてだった。

 いつもはキャンベラ市内に住んでいる友人が、キャンベラからは距離がある、火災の状況が深刻化していた国立公園エリア内の小川、Green Wattle Creek に近い場所から、自身のフェイスブックに火の手が迫っていることを投稿したのは12月頭。何故?と思ったら、そこは彼女の両親が住んでいるところで、家屋とその敷地に危険が迫っているとのことだった。このままだと明日火が到達するか?という日に、消防団がやって来て、バックバーニング、という手法を取ったとのこと。これは、先に敷地の周りの草木を焼いておき、火が到達した時には、燃える物がないので、そこで人を食い止める方法なのだそうだ。
 そうやって備えていたところ、幸い風向きが変わり、火の手が別方向を向いたために幸運にも彼女の両親の家は被害を免れた。近接する国立公園の火災が沈下したのは1月26日。延々2か月燃え続けていたのだそうだ。危険が身に迫ったのは数日だったとは言え、彼女の両親はずっと落ち着かない日々を過ごしていたのだろう。

Green Wattle Creekを含む広範に亘る火災を報じるニュース(2019年12月19日放送の7NEWS)

 もう一人の友人は正に自らの家に危機が迫った。シドニーからは大分南下したヴェローナという町(というより村と言った方が良い規模だと思うが)に住む彼女は大学院時代の友人で、博士号を取得した後しばらくして今の地に移り住み、野菜を育て、鶏や豚を飼い、野菜や玉子を地元のマーケットで売り、正にカントリーライフを楽しんでいるようだった。私はその地を訪れたことはないが、周辺には広大な自然が広がり、農業を営む人たちが多く住む場所であることが容易に想像出来る。
 今回のブッシュファイアーはヴェローナを含む地域に大きな被害をもたらした。その地域の中心的なコバーゴという町の様子は全国ニュースでも繰り返し流されていた。

2月19日に公開されたコバーゴの被害をレポートしたビデオ

 このビデオは状況が落ち着いた2月中旬に若者による報道チャンネル「VICE」が撮影、公開したものだが、これを見ていると、農業を営んでいると逃げる、と言っても、それほど容易いことでないことがよくわかる。人間は逃げられても、飼育している動物たちはどうしたら良いのか…。火災自体で失った羊は30頭の内6頭だったものの、生き残ったものも足などに重度の火傷を負っていたため銃で処分をせざるを得なかった、と言う男性の辛さはいかばかりか…。この男性は自分が手を掛けなければならなかった羊の他にも山に逃げ込んだ100頭余りの家畜を失っている。それでもこの地で生まれ育ったので、またここで生活を築いていく、と語る。
 このコバーグのブッシュファイアーでも、私の友人の家や敷地は本当に運よく焼けずに残った。動物たちも無事だったらしい。それでも、多くを失い、これから家はもちろん人生そのものを再建して行かなければいけない人たちが多くいるコミュニティの中で暮らしていくということは、彼女にとっても大変なことだと思う。このビデオにも表現されているように、元々小さいコミュニティだけに、災害に直面し、住民の結びつきがより強くなっているようだが、それだけに他人の痛みも我事のように感じられて、より辛いのではないだろうか…。

 では果たして私に何が出来るのか…。この友人に、ということでなく、第二の故郷と思っているオーストラリアが見舞われた悲劇にどのようなことが出来るのか…。これは今回のことに限らず、例えば昨年秋、日本各地を大型の台風が遅い被害が広がった時も同じだが、当事者でなく、その地域に住んでもいない者が被災地に貢献出来ることと言えば何か。やはりささやかな寄付をするのが一番なのだろうか。
 様々な想いが巡るが、次回は今回のオーストラリアのブッシュファイアーに対する寄付に纏わる話をしたいと思う。





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Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。