クジラ狂騒曲②「エデンの東にクジラが一杯?」

 フェイスブックは“お節介”だ。ログインすると「〇〇さんは知り合いじゃないか?」とか「××を使って、友達を探そう」とか、ちょっとうるさい。そもそもフェイスブックの趣旨は、フィジカルな人との関わりを越えて、ネット上で沢山の人と繋がり世界中に友達を作ろう、ということなのだから、その“お節介”は当然のことなのだろう。
 ただ、私は毎日会うことは出来ないが、近況を伝えたり、聞いたりしたいフィジカルな友達とレギュラーに繋がっているためにフェイスブックを使っている。未知な友達を増やすことには全く興味がないので、知り合いじゃない?というような表示がされると、非常に手前勝手ながら、ちょっとイラっとしてしまうのだ。
 しかしながら、そんなフェイスブックの“お節介機能”の中で、これはなかなかいいなぁ、と思う機能が一つある。それは何年か前の同月同日に自分のタイムラインにアップした写真やコメントが再表示される機能だ。フェイスブックに登録してから、もう10年以上経ってしまったので、忘れている自分の投稿は多く、またオーストラリア在住時にある地に旅行していたことは覚えていても、それが何年の何月だったかは記憶から飛んでいることが多い。そんな時に何年か前のその日の投稿が上がって来ると、あぁ、そうそう!と懐かしく当時のことを思い出す。加えて、しばらく忘れていた“やらなければならないこと”を思い出さされることがあるのだ。
 実はつい最近もそんなことがあった。2012年の9月の頭、私はニューサウスウェールズ州の町、エデンにいたらしい。9月5日、5年前に投稿したこの写真がタイムラインにトップ表示されていて、最近ご無沙汰になっていた自分の研究テーマのことを思い出した。

Eden。正に「エデンの園」のエデンだ。
 このエデンに、5年前私はメルボルンから向かった。これはその道中に撮影した写真だが、エデンはNSW州の町だけど、隣のヴィクトリア州との州境の近くにある町で、メルボルンから電車が出ている。

 とは言え、メルボルンからエデン行き、という路線でも、実は最後のエデンまで線路は敷かれていない。オーストラリアではよくこういうことがある。都会を出発する時は電車に乗るが、途中で大型バスに乗り換えて終着駅に到着する、というパターンだ。元々は電車が走っていたが、オーストラリアが車社会になった時に取り払われてしまった路線なのだろうか。メルボルンからエデン行きの路線は、行程の半分ぐらい行ったところにあるバーンズデールという町でバスへの乗り換えをする必要がある。

バーンズデール駅

 朝5時過ぎにメルボルン郊外の自宅を出発。市内のフリンダース駅から7時台の電車に乗り込み、バスへの乗り継ぎをして無事エデンに辿り着いたのは午後4時半ぐらいだった。

エデン着。バスの車窓から。

 私がエデンに向かったのは、当時メインで研究していたオーストラリアの捕鯨史を追い駆けるためだった。決して鯨を追い駆けるためではないので、念のため…。
 鯨が近海を多く回遊するオーストラリア大陸には、過去捕鯨基地だった地があちこちにある。今ホエールウォッチングを観光資源としているところは、何らかの形の捕鯨に纏わる歴史を持っていると思って間違いない。捕鯨基地はなかったまでも、先住民や入植者たちが鯨を有効利用していたとか、捕鯨船が立ち寄り捕鯨に関連する商売(例えば銛を修繕する鍛冶屋とか)があったとか、町の名前が捕鯨船の船長の名前に由来するとか、バラエティに富んだ捕鯨関連話に事欠かない。
 実はエデンもそんな町の一つなのだが、エデンの捕鯨の話はちょっとユニークだ。エデンにはその捕鯨史を伝える博物館「Killer Whale Museum」があるが、主役は正にそのkiller whale、シャチである。

朝焼けの中のKiller Whale Museum

 いや、シャチを捕獲していた、という話ではない。人間が鯨を捕獲するのに、シャチとのコラボでそれを行っていた、という話だ。
 エデンには、ちょうどその博物館から見渡せるトゥーフォールド(Twofold Bay)という湾がある。

そこに外洋を泳いでいる鯨をシャチが追い込み(因みにシャチだってもちろん鯨類だが…)、湾内で弱ったところを人間が仕留める、という漁がヨーロッパ人の入植が始まるずっと前から、この地域の先住民の人たちによって行われていたらしい。
 19世紀初頭になり、現在のエデン地域に農業など、新しい事業を興すためにヨーロッパ人が開拓に入ったが、今で言うところの“アントレプレナー”であった彼らの中には、エデンの目抜き通りや郊外の山にその名を残すイムレイ家、そして塔やその後背地の国立公園に名を残しているボイド家の人々がいた。

エデンの漁港から臨むイムレイ山

博物館近辺からポツリと見えるボイド・タワー

 彼らは農業などを試す傍ら、捕鯨業にも勤しんだが、エデンの捕鯨史の中で最も有名な一族は、1857年に捕鯨業を始めたデイヴィッドソン家だ。一家は地元の先住民の人たちを雇い、昔ながらの、シャチに湾に鯨を追い込んでもらい、湾内で人間が銛で仕留めるという漁法を採用した。

博物館内のパネル

 そのようにして仕留めた鯨は一晩湾内に繋いでおくという決まりだったそうだ。夜の間にシャチが鯨の唇や舌を食べ、翌日人間が亡骸の残りを頂戴して油を抽出するなどしたのだ。シャチにも報酬が与えられた、という訳だ。
 シャチたちはいくつかの群れに分かれ、群れの間で連携して鯨を湾に追い込んでいったらしい。捕鯨者たちはシャチ一頭一頭に名前を付けていたそうだが、そのエデンの捕鯨業は、シャチの数の減少と共に終焉に向かって行った。オールド・トムと親しまれた老シャチの亡骸が海岸に打ち上げられたのは、1930年。それを持ってエデンの長きに亘る捕鯨は途絶えたのだそうだ。(参考①)現在そのトムの骨の標本が博物館に展示されているが、シャチの全身の標本は、世界的にも珍しいものなのだそうだ。

Killer Whale Museumホームページスクリーンショット

 そのような非常に興味深い物語が詰まっている博物館を、エデンに到着した翌日早速訪ねた。

 とても天気の良い日で、眼下に広がる海が実に美しく見えたが、展望室ともなっている売店をウロウロしていたら、店番のおばさんが「今日は朝2頭も鯨が沖の方を泳いでいくのがここから見えたのよ!」と話しかけて来てくれた。へぇ、ここから見えるんだ、と感心しながら、そうか、やっぱりそうなのか、と思った。実はそれより前に、その年は鯨が早めにオーストラリア海域で目撃されていること、そしてどうも近年数が増えているらしいことが何度かニュースになっていた。そのことを思い出したのだ。
 鯨と言えば、絶滅危機品種、というイメージを強く持つオーストラリア人が、鯨の数が増えているというニュースを耳にするとどう反応するのだろう、と常日頃から思っていたので、その売店のおばさんに「鯨の数、増えているみたいですね」と返してみた。そうしたところ、「そうなのよ!鯨は沢山いるのよ!」という想定外の答えが返って来た。
 普通「鯨の数は増えている」という話については、それはこれまでの鯨保護が功を奏した結果で、更なる鯨の保護を、という方向に話が向かうことが多いのだけど、彼女の反応は全く違っていた。彼女は更に自分の夫と息子は漁師だけど、彼らに言わせると、もっと沖に出ると鯨は一杯いるってことなのよ、と続けた。
 どうもそのおばさんの語りのトーンが、よくいる鯨は神聖な動物だから殺してはいけない、と言っている人々とは違う気がしたので、もう少し話が聞いてみたくなり、私は名乗って、自分が日豪間の捕鯨論争の研究をしている者で、オーストラリアの捕鯨史に関心を持っているんだ、ということを告げた。そうしたところ、彼女は、そうなのね、と言った後で、日本の捕鯨に思いを巡らしたのだろう。一呼吸おいて「目的なくただ殺すっていうのは良くないけど、食べたいって言ってる人たちがいるんだから、捕鯨、やったっていいじゃない!」と言い放った。
 あまりにもはっきりした物言いにこちらがびっくりして、思わず辺りを見渡してしまった。 オーストラリアでは捕鯨を推進しないまでも、ヘタに擁護するような発言をすると睨まれることもあるので。幸いなことに、その時間売店に客はあまりおらず、我々の会話も聞こえていないようだった。
 私はオーストラリアの人から、その時ほど強く捕鯨を擁護するセリフを聞いたことがなかったので、更に興味が湧いて彼女としばらく雑談をしていたのだが、徐々に彼女がどうして捕鯨に対してそのような発言をしたのか、背景が見えて来た。そこには何か自らの生活が割を食っているという感情が潜んでいるように感じた。
 エデンは都会からうんと離れた人口3,000人程の町で、現在発展して行っている町ではない。軸となる産業は昔からの漁業、そして観光。それに農業や林業などだ。観光客はやはり夏の間に多く、通年で賑わうわけではない。彼女のだんなさんと息子さんが従事している漁業に関しては、どうも多くの規制があって、非常に窮屈な中で事業を営んでいる、という印象だった。彼女は当時絶好調だった鉱山ブームに言及しながら、鉱業が環境を破壊するとわかっていても、それが儲かるのであれば国はそれを推進し、優遇する。翻って漁業は締め付けがきつくなるばかりだ、と嘆いていた。
 確かに私も一般に流れるニュースを見ていて、オーストラリアは漁業に対して、環境破壊の観点から随分厳しい姿勢を政府が取っているんだなぁ、という印象を持っていた。その頃ちょうど話題になっていたのが、巨大なトロール船のオーストラリア海域への導入だった。実際には多くの研究者が努力をし、懸念されるような環境破壊がないようにデザインされた船だったのだが、ビジュアル的に魚を一匹残らず海底からすくってくるようなイメージがあり、批判が巻き起こっていた。

ニュースサイトNews.com.au(2012年8月24日付)より

 実際彼女のだんなさんも、昔は漁業用の網も作っていたが、規則が変わり一夜にしてその職を失ったんだ、と言っていた。実際に一夜にしてだったのかどうかはわからないが、お上が導入する様々な漁業に対する規制が、彼女一家の生活を圧迫していることは確かのように聞こえた。
 かつ、エデンは日本の所謂過疎地のような、普通の生活を送るための基礎的公共サービスが切られて行く悲哀を味わっていた。その時はちょうど病院問題が持ち上がっていた。彼女に言わすと、今でも一番近い総合病院までエデンからは車で2時間もかかるというのに、その病院が閉鎖されようとしている。その病院がなくなると、一番近い総合病院までエデンから4時間もかかってしまうんだ、と。だから今地元が連携して、病院閉鎖反対運動をやっているんだ、と言っていた。国全体の発展から何か取り残されたような、感情を彼女の言葉から私は感じた。
 すっかり鯨や捕鯨の話からは離れた会話になってしまったが、とても興味深い話を聞かせてもらった。当たり前だが人々にはそれぞれ生活があり、日本が捕鯨をし、鯨を食べていることなど日常の関心事ではない人がオーストラリアにだって山のようにいるのだという当たり前の事実を再認識させられた。
 5年経った今、彼女はどうしているだろうか。あの病院はどうなったのか。フェイスブックはX年前にあなたが訪ねたところは今こんなになってますよ、という“お節介”アラートを投稿してくれたらいいのにな、と思ってしまった。

エデンの東に上る朝日(2012年9月5日撮影)

【参考①】
Killers of Eden
Eden community site “Whaling”
 

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Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。