今週初め、オーストラリア国営放送(ABC)のオンラインニュースを見ていたら、「ウルル登山騒動(Uluru climb controversy)」という記事が目に入って来た。何でもアダム・ジャイルズ・ノーザンテリトリー(北部準州)首相が州議会でウルルへの登山を許可した方がメリットがあるのではないか、と言ったことに対し、人々がソーシャルメディアなどで批判している、という内容だった。
ウルル、と言っても日本の人たちは余りピンと来ないかもしれないが、エアーズ・ロック、と言えば、あぁ、と思う人は多いのではないか。そう、地球のおヘソとも、世界の中心(?)とも言われる、オーストラリア大陸中央に位置するあの赤い巨大な「岩」、ロックのことである。
不思議を感じさせるカタ・ジュタ
そうこうしている内に、エアーズ・ロック登りが禁止される、という話が聞こえて来た。岩がエアーズ・ロックからウルルと呼ばれるのが主流になったのもこの頃だったか…。(注③)ウルルは…というより、オーストラリアの大地はそもそもヨーロッパ人がやってくる前からそこに暮らしていた先住民たちに属していたもので、先住民の土地権利への認識が高まっていく流れの中で、彼らに属し、彼らにとって神聖な存在である「岩」に登るのは控えるべきだという声が高まったのだ。
とは言え、岩登りを全面禁止する、という措置ではなく、出来るならば先住民の意志を尊重して登らないで欲しい、と“お願い”をする形に留まり、それからも登る観光客は後を絶たない状況が続いている。しかし、どうも21世紀に入ってから、やはり全面禁止にしては、という意見も出て来ていたのらしい。
そのような時に飛び出したジャイルズ首相の発言。炎上するのは当然で、ウルルに登ることとシドニーのハーバー・ブリッジに上ることを同列で述べてみたり、ウルルはエッフェル塔より高くって登り甲斐があるとか、岩登りを全面的に開放して観光客が増えれば、雇用創出に繋がり地元にメリットがあるなどと言ってみたり、どこかポイントがずれている。そもそもそのような発言をする前に当事者である先住民の人たちに相談するべきではないのか。
大体、所有者が登らないで、と言っているのに、未だに登る人たちが多くいることが私には理解出来ない。今回首相の発言を批判している声の中に、自分の家に勝手に他人に入られ、あちこち見られ、写真を撮られたりするのは普通不快じゃないか?というものがあったが、その通りではないか。ましてやその地がそこの民にとって神聖な場所であれば尚更である。そのような場所に土足で踏み入れられたくないのは、どんな民族、文化でも、いやどんな一個人でも同じなのではないかと思う。
加えて言えば、ウルルを中心とするオーストラリアのど真ん中のあの一帯は、例えウルルに登らなくても充分訪ねるに値する地である。360度、ほぼ真っ平な土地に、ポツポツと出現する奇石たち。写真で見慣れたウルルも、実際に行ってみると案外平たい恰好をしていることを発見したり、普通は正面からの絵面ばかり見せられているが、岩の裏側に周り岩の違う表情を見ることが出来たり、アボリジニのロックアートを見られたりもする。
そして何よりそのだだっ広い空間に立つことによって、何万年にも亘ってその地に暮らして来たアボリジニの人たちの世界観をほんのちょっとでも体感出来たような気持ちにさせられる。正に神聖なるものを感じる、というのか。
この問題に関してTo climb or not to climb, that is the question、というブルータス的な悩みは存在しないのだ、と私は思う。そもそも選択の余地などないはずなのだから。
注①:世界一は同じくオーストラリア、西オーストラリア州のマウント・オーガスタ。
注②:英語名はマウント・オルガ。
注③:1993年からアボリジニの名前ウルルを英語名エアーズ・ロックと併記し、エアーズ・ロック/ウルルと記載。2002年からはウルルが先に表記され、ウルル/エアーズ・ロックとなっている。
注④:Solid Rockとはウルルのこと。この曲は1982年に発表された Goanna(オオトカゲ)というバンドの曲のリメイク版。2013年、若手アーティスト、スコット・ダーロウがこの曲の作曲・作詞者でGoannaのリーダーだったシェーン・ハワードの参加を得て、発表。30年以上経っても深いメッセージ性を持つ曲である。