新型コロナ禍でやり切ったテニス全豪オープン

 2月20日、メルボルンで行われたテニス全豪オープンの女子シングルス決勝で大坂なおみ選手が勝ち、二度目の全豪制覇を果たした。今大会、大坂選手のプレーはもちろん、その言動の成長ぶりに目を見張ったテニスファンは多かったのではないか。私もそんな一人だったが、同時に表彰式で沸き起こる観客席からの歓声に、別の意味で実に感慨深いものを感じた。

全豪オープン女子シングルス表彰式の様子

 試合後ロッドレーバーアリーナのコート上で、オーストラリアの往年のダブルスの名手トッド・ウッドブリッジ氏を司会に行われた表彰式。決勝戦の相手、ジェニファー・ブレイディ選手、続く大坂選手のスピーチに観客が大きく反応。彼女たちも歓声や拍手に応え、アリーナの一体感が増していることが映像からも伝わって来た。そして、写真撮影も終えて大坂選手が退場する際には、ファンが差し出すテニスボールやパンフレットにサインをするお決まりの光景が繰り広げられた。それは一見いつもと同じグランドスラムの表彰式の光景だった。しかし、それは私には半ば奇跡にも近い光景に見えた。

 昨年のブログにも書いたように、全豪オープンが開催されたメルボルンが州都のヴィクトリア州は、新型コロナ感染の第二派のダメージをオーストラリア国内で一番大きく受けた州で、夜間の外出禁止など厳しい行動規制が掛けられていた。この徹底的なウイルス封じ込め作戦が徐々に効果を見せ始め、同ブログを見返すと、9月11日のヴィクトリア州の新規感染者数は37名にまで減少。その後10月に入ってからは10台と一桁台をウロウロする状況が続きヴィクトリア州政府の発表をみんなが固唾を飲んで毎日待っているような状態だった。
 そして、遂に10月26日、新規感染者数0、との発表がダン・アンドリューズ州首相からなされた。その日は終日メルボルン発のツイッターやフェイスブックの書き込みには0をドーナツに例え、🍩の絵文字が躍った。連続記者会見を開き、記者からの厳しい質問に毎日根気強く対応していたアンドリューズ州首相もその日の夕方、こんな写真を自身のツイッターに投稿した。

 その段階で110回を超える連続記者会見を開いていた州首相だが、10月30日、120回目となる会見の締めくくりに「明日はみんなには会わないから」と一言。「お~!」と記者たちの間からどよめきが起こった。翌日から数日、アンドリューズ州首相は会見に姿を見せることはなかった。久々の休暇がやっと取れたのだった。
 結局ヴィクトリア州は112日に及ぶロックダウンを経験することになったが、その効果はてきめんで、大晦日に一人感染者が出るまで、市中の新規感染者数は0が続いた。新型コロナ禍が始まってから「0」などという数字を見たことがない東京の住人からしてみると、ヴィクトリア州が連発するドーナツの日々は俄かには現実のこととは思えないようなことだった。0になることってあるんだ、と。
 もちろん、新型コロナウイルスが州からいなくなった訳ではないので、コロナ以前の日常が戻って来たということではなかった。外出時のマスク着用、オフィスに出社出来る従業員の割合、カフェなどはお店の面積に合わせた客数の制限など、細かいルールの適用は継続された。それでも夜間の外出禁止令が解かれ、ヴィクトリア州内の移動は自由になり、大分解放された感じが報道から伝わって来た。
 そしてほどなくロックダウンに入っている間閉じられていた隣りのニューサウスウェールズ州(シドニーを擁する州)との州境が開き、多くの人たちが州境を越えて移動した。長らく会えなかった家族や友人のところを訪問した人たちもいれば、久々の旅に出た人たちもいた。私のヴィクトリア州に住む知人も、早速いそいそとニューサウスウェールズ州へキャンプに出掛けていた。
 そうこうしていたところ、12月に入って今度はシドニー近郊でクラスターが発生。ウイルスがヴィクトリア州に運ばれることを阻止するために速攻でまた州境が閉じられてしまった。結果ホットスポットとなったエリアを訪ねていたヴィクトリア州の人たちが帰宅出来なくなる事態も発生。クリスマスがかかった時期だったので、予定が大きく狂って落胆、大きな不満を抱える人も沢山出ることになった。

 そんなアップダウンの日々をヴィクトリア州の人たちが過ごしていた只中の12月17日、主催者から全豪オープンが、恒例の1月開催から2月に時期をずらし開催されることが正式に発表された。昨年はロックダウンのあおりで、メルボルンの毎年恒例の最大のスポーツイベントと言っても過言ではない、10月開催のオーストラリアン・ルールズ・フットボールのシーズン決勝戦開催地をブリスベンに持って行かれてしまい、メルボルンっ子たちは実に悔しい思いをした。そのような経緯もあって、全豪の開催にゴーサインが出たことはメルボルンにもたらされた久々の明るい話題だった。

全豪オープンが開催されることが発表されたテニス・オーストラリアのウェブサイト(スクリーンショット)全豪オープンが開催されることが発表されたテニス・オーストラリアのウェブサイト(スクリーンショット)

 とは言え、折角長期に亘るロックダウンに耐え、やっと市中の感染が0に抑えられ、少しずつ日常を取り戻しているというのに、海外から選手やその関係者、報道陣など多くの人たちを迎えることが、ウイルスの持ち込みに繋がらないか、と地元の人たちの間には不安や警戒心も広まった。また、オーストラリアは新型コロナ禍の影響で海外で足止めを食っている自国民の帰国についても、一日に入国出来る人数に上限を設け厳しく制限していたので、年末が近づいても帰国出来ない人たちが多くいる状態だった。それなのに何故海外の人たちを受け入れるのか、という批判の声も大きかった。
 それでも、このような規模の国際スポーツ大会を開催したい都市は世界に数多くある。我々が諦めればすぐに他の地が名乗りを上げるだろう。そして二度とメルボルンには戻って来ないかもしれない。また、これは単純に競技会だ、ということだけでなく、ここで多くの雇用も発生する。これはロックダウンを抜けたヴィクトリア州の経済回復に必要なんだ、という趣旨の説明をアンドリューズ州首相は行い、主催者は開催に向けて周到な準備を進めた。
 そして1月。月半ばに主催者が用意したチャーター便で選手や関係者たちが続々とメルボルンや、前哨戦のあるアデレード入りをした。もちろん、そこから14日間は「隔離」である。世界のトッププレーヤーたちを含め、一人残らず、である。
 メルボルンでは3つのホテルが選手の隔離期間中の滞在宿泊場所として指定された。それぞれのホテルからは市中に出ずに直接アクセス出来る練習コートやジムがあり、ホテルを含むその空間は「バブル」と呼ばれた。各人が自室から出られるのは一日に5時間。接触出来る人の数も制限がかけられた。食事もホテルの中で主催者から提供されるものか、ウーバーイーツなどで注文したものを自室で、ということで、選手たちは、外の世界と隔絶された空間で2週間を過ごすこととなった。
 これだけでも心身ともに選手たちには大きな負担がかかることと思うが、更にオーストラリアへやって来たチャーター機の中の3便で、メルボルンに到着してから搭乗者から陽性者が出て、同じ便に乗っていた人たちには上記以外に更に隔離期間中自室を一歩も出られない、という厳しい制限「ハードロックダウン」が適用された。日本の選手も錦織圭選手と、ダニエル太郎選手が運悪くこのカテゴリーに入ってしまった。
 これには一部の選手たちから不満の声が上がった。身体を動かすのが商売の選手たち。それがホテルの部屋から2週間も一歩も出られないとは。これはスポーツ選手でなくとも大変な困難だ。また、ハードロックダウンを強いられた選手と、通常の2週間隔離で済む選手とでは大会前のトレーニングに差が出てしまい、不公平だ、という声も上がった。
 そんな中、選手たちの不満の声を代表して、とノバク・ジョコビッチ選手がテニス・オーストラリアに対して隔離制限の緩和に関する要望書を提出する、という事態が発生した。彼の要望の中には例えば、それが可能な選手は指定の隔離エリア外にテニスコート付きの一軒家を借り、そこで練習もしつつ、選手と関係者が隔離生活を送る、というものも含まれていた。
 記者会見でこの件を問われたアンドリューズ州首相は、各人が様々な要求をするのは自由だが、特別扱いというものはない。今回の要望に対する回答はノーだ、と言い切った。実際選手たちはオーストラリアへ向かう前に細かく状況の説明や条件を示されいて、場合によってはハードロックダウンが適用されることもある、ということは了解済みのことだったのだ。よってジョコビッチ選手の要望をテニス・オーストラリアが入れることはなかった。
 考えてみれば、メルボルンに集まって来た選手の中には、新規感染者が日々千や万の単位で増えていても、それほどきつい行動規制がかけられていない国からやって来た人たちもいた訳で、ヴィクトリア州の行動規制の厳しさに当初納得が出来ず、不満を漏らしてしまった人たちがいたのは致し方のないことだったのでは、とも思う。しかしオーストラリア到着から時間が経ち、だんだん地元の状況が見えるようになり、ヴィクトリア州の人たちが昨年どれほど厳しい非日常を送り、市民一人一人の努力、協力によって市中感染者数ほぼ0の日々を迎えられているということが理解されるようになって来ると、不満を表わしていた選手も徐々に態度を軟化させた。ツイッターで述べた不満を削除し謝罪する選手も現われた。
 テニス・オーストラリアはこの間、特にハードロックダウンになってしまった選手たちのサポートに尽力をし、例えば各選手の部屋にジムのマシーンを入れるなど、彼らからの要望に極力応えていった。そして選手たちも前向きに、そしてかなりクリエイティブに決して広くはないホテルの部屋をテニスの練習場に変えてトレーニングに励んだ。

ベリンダ・ベンチッチ選手のツイッター投稿から(1月17日付)

 若干この後のホテルの部屋の損傷具合が気になるし、我々がホテルに滞在した時には決してやってはいけない、というベンチッチ選手のホテルの部屋使用方法だが、開催に向けて何となく重苦しい空気が流れる中、このような選手たちのSNS投稿は明るい話題の提供となった。
 そして、1月末から2月頭にかけて2週間のロックダウンが開け、選手たちは町へ出、それぞれ別の宿舎にチェックインし、コートで本格的な練習を開始した。

センターコートでの練習に励む錦織圭選手のツイッターへの投稿(1月31日付)

隔離中も明るかったが、隔離開けは更に明るいダニエル太郎選手のツイート(2月5日付:スクリーンショット)隔離中も明るかったが、隔離開けは更に明るいダニエル太郎選手のツイート(2月5日付:スクリーンショット)

  選手たちが渡航した飛行機で感染者が出、一部の人たちにハードロックダウンが適用され、選手から不満の声が上がり出した頃には、地元の人たちの間にも全豪を実施するなんてどう考えたって無理なんじゃないのか、これは大混乱じゃないか、収拾がつかないじゃないか、というムードが流れた。メディアの報道も悲観的で、スタート日が数日後ろに送られるのではないか、という話も出た。しかし、遂に訪れた2月8日、全豪オープン2021は予定通り開幕した。かなり数を制限してではあるが、観客を入れることも実現した。
初戦を突破した大坂なおみ選手(2月8日付WTAのツイッターから)(2月5日付:スクリーンショット)

  しかし、2週間の大会期間中にも試練は待っていた。大会が始まってすぐに英国変異株の市中感染者がメルボルンで一人見つかったのだ。彼は海外から帰国した人たちが隔離生活を過ごすホテルで働いていて、海外から持ち込まれたウイルスに感染し、そこから市中の人数人に感染が広まっていた。ヴィクトリア州政府の動きは早く、2月13日にメルボルンとその近郊に5日間の短期のロックダウンが宣言され、徹底的な感染ルートの調査が行われた。それでも全豪の試合は続行されたが、無観客での試合となってしまった。
 幸いにも5日間のロックダウンには効果があり、変異株クラスターが拡大する兆候がなかったことから、ロックダウンの延長はなく解除された。メルボルンパークには観客が戻った。
観客が戻ったことを喜ぶ全豪オープン公式ツイッターアカウント(2月18日付)観客が戻ったことを喜ぶ全豪オープン公式ツイッターアカウント(2月18日付)

  大坂なおみ選手が見事女子シングルスで優勝したのはそれから3日後だ。表彰式で大坂選手の隣りに立つテニス・オーストラリアのCEOで、今大会のディレクターのクレイグ・タイリー氏は誇らしい気持ちでいただろうが、同時にさぞかしホッとした気持ちでもあったのでは、と思う。
 翌日、今度は男子のシングルス決勝が行われ、ジョコビッチ選手がなんと9度目となる全豪のトロフィーを手にした。先に書いたようにジョコビッチ選手はオーストラリアの厳しい隔離政策に物申し、緩和を訴える要望書をタイリー氏宛に出していた。実はそのことでジョコビッチ選手は逆にわがままだ、と大変なバッシングに遭ってしまっていた。彼としては良かれと思ってやったことだったので大変辛い想いをしたらしいが、それだけに過去の8度に何倍も勝る喜びの優勝だっただろう。
9度目の全豪優勝を決めたジョコビッチ選手(9Newsのサイトより。スクリーンショット)9度目の全豪優勝を決めたジョコビッチ選手(9Newsのサイトより。スクリーンショット)

 12月半ばに開催がアナウンスされてから、本当にやり切れるのだろうか、と心配しながら見守って来たテニス全豪オープン。政治が科学に忠実な方策を講じることで、このような大規模イベントもやっかいな新型コロナウイルスとの距離をコントロールしながら実現することが出来ることを教えてくれた。この夏にオリンピック・パラリンピックの開催を控える日本には沢山の教訓が詰まっている大会だったように感じている。日本は海外から何かを学ぶという時、すぐに欧米から、となるが、たまには南半球を見てみるのも悪くないのではないだろうか。同じ東アジアの隣人なのだから。

Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。