傘を差さないオーストラリア人と水、そして干ばつ

 つい先日新しい日傘を買った。長年持っていた人様からいただいた日傘を昨年失くしてしまったからだ。元々日に焼けることを気にしていない方なので、日傘なしでもいいか、と思っていたのだが、この余りの暑さに、少しでも直射日光を遮ることが出来るなら、と傘売場に走ったのだ。
 いざ買うとなると、なかなか気に入った柄、色、素材のものがなく、あちこち見て回ったが、いやいや、雨傘も併せて、日本の傘売場の商品の種類の多さにちょっと圧倒された。それでもなかなか気に入ったものがない、などと思ってしまうのだから困ったものだが、いろいろ品定めしながら、これはオーストラリアではお目にかかれない光景だなぁ、と思った。
 元々ちょっと気の利いたデザインの雑貨は手に入りにくく、値段が高いオーストラリア。日本と比べるとバラエティもないに等しいのだが、傘となると更に寂しい印象がある。そして、それよりも、何よりも、オーストラリアではそもそもみんなあまり傘を差さないのだ。
 一日に四季がある、と言われ、雨に降られる回数が多く、またお洒落の町を自認しているメルボルンではシドニーやウーロンゴンよりは傘を差している人は普通にいたように思う。それでもカバンの中にとてもコンパクトで軽量な傘を常時忍ばせていて、ちょっとした雨でもそれを取り出して、サッと傘を差して雨を凌ぐ、という人はほとんどいないのではないか、と思う。
 なんでなんだろう?オーストラリアの人たちって、やっぱり無頓着なのかな、ズボラなのかなと最初は思っていた。自家用車で移動することが多いので、あまり長い距離雨の中を歩くケースが少ないということもあるのかな、とも。そのような理由に加えて、ある時ふと気がついたのが、彼らが傘を差さないのは、濡れてもすぐ乾くからではないか、ということだった。
 オーストラリアはとても空気が乾いている。もちろんオーストラリアと言っても広いので、例えば日本人にも人気の観光スポット、ケアンズくらい北部になると、熱帯雨林があるような気候となって来るので、とても蒸し暑く、海辺には乾いた大地に伸びるイメージのユーカリではなく、マングローブが生えていたりする。

熱帯雨林の町キュランダへ上る電車が出発するフレッシュウォーター駅
熱帯雨林の町キュランダへ上る電車が出発するフレッシュウォーター駅

熱帯雨林を見下ろすスカイレールの旅(共に2009年4月撮影)
熱帯雨林を見下ろすスカイレールの旅(共に2009年4月撮影)

 しかし、シドニーやメルボルン辺りだと、湿度はかなり低くなる。真夏に気温が35℃くらいになっても、日陰に入ったり、家の中に入ったりすると涼しく、比較的楽に過ごすことが出来るのは、空気が乾いていて、ムシムシしないからだ。学生寮で日本人の若い女子留学生たちが、肌が荒れて困る、と嘆いていたのを思い出すが、それは乾燥した空気が原因だった。
 それだけ乾いているので、相当激しく雨が降っても、一旦上がってしまうと、地面がみるみる内に乾いていくのだ。ある時その様子を学生寮の敷地内で見ていて、そうか、こちらの人たちがあまり傘を差さないのは、ひょっとして単に無頓着だったり、ズボラだったりするのではなく(もちろんそういう人たちも相当数いるだろうけれど)、濡れてもすぐ乾くので、ちょっとした雨だったらわざわざ傘を差す必要を感じないからかもしれない、と思い至った。

雨上がりのウーロンゴン大学学生寮(2015年7月撮影)
雨上がりのウーロンゴン大学学生寮(2015年7月撮影)

 直接本人たちに聞いてみたことはないが、多分日本で雨に濡れるほど不快なことにはならないのが、オーストラリアの傘差し人口(?)の少なさの理由の一つなのではないか、と思う。

メルボルンの商業施設Australia on Collinsのディスプレイ(2012年X月当時) メルボルンの商業施設Australia on Collinsのディスプレイ(2012年6月当時)

 オーストラリア政府のウェブサイトによると、オーストラリア大陸は世界の6つの大陸の中で、最も乾燥した大陸で、領土の20%が砂漠地帯なのだそうだ。降水量も大陸のあちこちでまちまちで、先ほど書いたように、北部の方は熱帯雨林があるような気候で年間の降水量も多いが、その他の地域では水不足が生じたり、オーストラリアの夏の“風物詩”とも言えるブッシュファイアー(森林火災)が、空気がカラカラのために大火となり、甚大な被害をもたらしたりすることは珍しいことではない。
 この写真は、2009年2月の土曜日にヴィクトリア州で発生した史上最悪と言われ、「ブラック・サタデー」と呼ばれるブッシュファイアーの模様を写したものだ。

Black Saturday Firesウェブサイトより(スクリーンショット) 
Black Saturday Firesウェブサイトより(スクリーンショット) 

 「水」は、昔からオーストラリアでは大変貴重なものであり、大陸の開拓が始まった植民地時代から如何に水を引くか、ということが大きな課題だった。もちろんヨーロッパ人たちがやってくる何万年も前から、この乾いた大陸で生活をしてきた先住民の人たちにとっても、水を手に入れることは生きて行くために大切なことだったはずだ。しかし入植後、土地を開拓し、そこで作物を育て、家畜を飼い、大規模な農場を展開するには、大量の水の確保が不可欠だった。
 オーストラリアの水政策で最もよく知られているのが「スノーウィーマウンテンズ水力発電灌漑計画」だ。スノーウィーマンテンズはオーストラリアでは珍しく雪の降るエリアだ。

スノーウィーマンテンズの位置
スノーウィーマンテンズの位置

 その降雪を利用して水力発電を興し、同時に内陸部での水を確保するという計画はまだ植民地時代に唱えられ、計画が練られたが、実際に工事に着工したのは1949年。25年後の1974年に7つの水力発電所、16のダム、225キロに及ぶトンネル、パイプラインなどを要する一大プロジェクトが完成した。工事に携わった労働者の数は10万人と言われているが、オーストラリア国内のみならず、世界中から労働者が集まり、工事の現場は将来の国家の姿、多文化社会オーストラリアを標榜する様相を呈していたのだ。

ABC放送「Behind the News」(※①)より)

 そのような訳で、オーストラリア人の水の節約の仕方はかなり徹底している。日本ではお皿を洗剤で洗えば、次に水で流してから干す、というのが一般的だと思うが、オーストラリアでは水で流す過程がなく、洗剤で洗ったまま干して、すぐに拭いてしまう。
 トイレの水の流し方もシビアだ。少々汚い話で恐縮だが、若干きちんと流れていなくても、2度流すことはしない。そういう場合はトイレットペーパーで流し足りなかった部分を隠すのが作法だ。ある時少し田舎の方に住む友人の家に行った時には、トイレは「小」の方だったら流さないで。一日に数回だけまとめて流しているから、と言われた。そこまで徹底しているのか、と感心したが、そういう意味では、日本の女性が用を足している音を消すためにトイレを流す、という行為など、言語道断、ということだろう。(今は「音姫」なる文明の利器(?)が登場したので、2度3度と流す人は減ったかもしれないが。)
 私がウーロンゴンで住んでいた学生寮では、ある時「節水週間」が設けられたことがあった。寮をブロック毎に分け、一週間の初めの水道使用量を記録。みな、節水に励み、一週間後に再度使用量をチェックして、どのブロックが一番節水出来たか競う、というものだった。学生の自治会組織が発案したもので、その会を構成するレジデンシャル・アドバイザー(RA)と呼ばれる学生のリーダーたちは、殊の外張り切っていた。小さい砂時計を入寮者全員分購入し、部屋を一戸一戸回って配布しつつ、シャワーは5分以内で、と周知して回っていた。
 そうやって、資源の節約に取り組んでいる時も、時間になったらRAがチェックして消灯をしなければならない洗濯室の灯が煌々と点けっぱなしになっていたりして、やはりどこに関心があるかで、何を節約するのかも違ってくるんだなぁ、と思ったものだ。水の問題はやはり地元のオーストラリア人にとっては、最大の関心事なのだろう。
 その砂時計は私のところにもやってきて、その一週間は大急ぎでシャワーを浴びることになった。誰も見てはいないのだから、ちょっとくらい、と思わなくもなかったが、折角みんなが頑張っているから、と私も協力をした。
 正に郷に入れば郷に従えで、学生寮でも、メルボルンで住んだ借家のアパートでも、なるべく水を無駄遣いしないように自然に気をつけるようになっていった。さすがに洗剤で洗ったお皿を水で流さない、というのは、どうも身体に悪そうで、日本での習慣通り水で流させてもらったが、それも最小限にとどめるように随分と気を遣った。
 そのような習慣が身について帰国したので、今でも野菜の茹で汁は捨ててしまわずに洗い物に使ったりするが、夏にお蕎麦を茹でて、冷やすために水をジャージャー流していると、なんだかエラク後ろめたい気持ちにさせられる。道を歩いていてそれこそ打ち水をしているお店や家に遭遇すると、一瞬、あぁ!と思ってしまう。オーストラリアでは水不足になってくると、庭に水を撒くことを州政府から禁止される段階に入ることがあるので、つい、ハッとしてしまうのだ。慣れとは恐ろしいものだ。

 さて、そのオーストラリア、実は今、干ばつが大問題になっていて、毎日のように関連のニュースがトップで流れて来る。現在干ばつの被害を被っているのは東部のニュー・サウス・ウェールズ州とクイーンズランド州だ。NSW州はついこの間州全体が干ばつの状態にある、と発表された。またQLDの一部地域では既に6年も干ばつが続いているのだそうだ。結果、両州の農家に多大な被害が出ている。作物が作れない農家も大変だが、畜産農家は更に辛い。動物たちの餌となる干し草などが枯渇していて、牛や羊たちがやせ細り、餓死する動物たちも相次いでいるのだそうだ。
 これはNSWで畜産を営むキング家の16歳の長女ザラさんが撮り続けている家族の牧場の写真だ。

カラカラに乾燥した赤い大地(ABC NEWS スクリーンショット)
カラカラに乾燥した赤い大地(ABC NEWS スクリーンショット)

やせ細った牛と乳を吸う仔牛(ABC NEWS スクリーンショット) やせ細った牛と乳を吸う仔牛(ABC NEWS スクリーンショット)

 ザラさんの一家の窮状と写真は、ABC国営放送のネットニュース、そしてテレビの報道番組「7.30」で取り上げられ広く知られることとなった。一家は、この報道がなされた時点から2週間で干し草がなくなる、と言っていた。その後どうなったのか…。

「7.30」の干ばつレポート(2018年8月2日放送)
「7.30」の干ばつレポート(2018年8月2日放送)

 このキング一家の報道に限らず、農家の窮状を伝えるレポートから聞こえてくるのは、この惨状を多くの人たちに知って欲しい、特に都会の人たちにも知って欲しい、という農業を生業とする人たちの悲痛な叫びだ。都会で生活する人たちは、日々当たり前のように肉や野菜を買い、料理をして、食事をする。あるいはレストランで出された料理を口にする。しかしその豊かな食生活を支えているのが、農業に携わる人たちの大変な労力であり努力であることに日常的に思いを馳せている人は稀だろう。誰でも頭ではわかっているし、感謝もしている。しかし、どこか実感がないのが正直なところなのではないか。
 今回のこのオーストラリアの農家を襲った窮状は、日本の人たちにとっても全くの他人事、ということではない。今日本に入って来ている輸入牛肉のトップを占めるのはオージービーフで、全体の半分を越えている。もちろん、日本に輸入される牛肉が、今回干ばつの被害を受けたエリアからのものかどうかはわからない。しかし、遠い外国で起こっていることでも、我々の日常に関係しているかもしれないと想像力を働かせることは大切なのではないか。
 この干ばつはQLDでは長期に亘っており、農家は廃業を余儀なくされるなど、大きな影響をそこに住む人々やコミュニティに及ぼしている。彼らが廃業して別の場所に移り住んで行くと、町の他の営みも立ち行かなくなって行き、町自体が廃れて行ってしまうのだ。また、もともと農業を営む男性たちの間ではうつ病を患う人が多く、自殺率も高いと言われている。農業を営むことがそれだけ厳しく困難であることの表われだが、干ばつの被害を受けたエリアの人たちの心身の健康も心配される。
 オーストラリアからの続報を見ていると、慈善団体やボランティアの人たちが農家の人たちが必要とする日用品や食料、そして何と言っても「水」をトラックに積んで干ばつのエリアに入り、活動を開始しているらしい。オーストラリア赤十字社を初めとする、各種義援金の募集も始まっている。NSW州政府もQLD州政府もそれぞれ助成を表明。連邦政府も8月5日に総額で1億9千ドルに及ぶ救済パッケージを発表している。そして、何より、メディアの報道により、干ばつの過酷な実態がそれ以外の地域の人たちに伝えられ、関心が集まって行っている。
 しかし今一番彼らに必要なのはなんといっても「雨」だ。雨が降らなければ、事態の根本的な好転は望めない。農家の人たちも、関係者も、この事態を注視している国中の人たちも、とにかく雨が降ることを祈っている。


Bulldust_and_mulgaのFacebookアカウント(スクリーンショット)
Bulldust_and_mulgaのFacebookアカウント(スクリーンショット)

 これはQLDのある農家の人がSNSに投稿した上空から農場を写した写真だ。羊が干し草を食べているところだが、干し草が「雨ごいをする人」の形に置かれているのらしい。人が祈りのために跪いていて、手に雨量計を持っている図だそうだ。恵みの雨は一体いつもたらされるのだろうか。
 私もこの猛暑の東京にいながら、オーストラリアからのニュースを追いつつ、雨が降ることを心から祈っている。と同時に、水害が多い今年の日本の夏。これからやってくる台風の雨など、余分な水をオーストラリアへ届ける方法はないのだろうか…と思わざるを得ない。



(注①):「Behind the News」はABC放送の中学生向け歴史・時事解説番組



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Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。