二回前のブログで桜の話を書いてから、一気に季節が進んでしまい、既に猛暑の日々に突入してしまった。元々クーラーは苦手なタイプで、家ではほとんど扇風機、エアコンを入れてもドライを使うくらいだったのが、今はどうにも耐えられなくなってしまった。独居なので、一人で倒れてしまってもまずいので、やせ我慢せずに限界に至る前にクーラーを入れるようにした。
逆にオーストラリアは、今は真冬だ。シドニー、メルボルン辺りだと東京ほど寒くなることはない。特にシドニーはここのところの気温を見ていても、最高気温が20℃近い日もあり、太陽が出ていれば、そこそこ暖かいのではないだろうか。一方メルボルンはと言えば、気温を見ると最高気温は10℃台には乗ってくるのに、何故か東京よりも寒く感じることが多かった。それはひとえに南氷洋から直接吹いて来るように感じる寒風と、家の密閉性が低く、暖房設備がショボいことが原因だったように思う。
さて、その二回前の回でオーストラリアからわざわざ目黒川の桜を見にやってきたキャロリンさんという友人の話を書いた。私が彼女と最初に会ったのは、彼女が2013年に彼女のおじいさんと一緒に日本政府の招待で来日をした時だった。
おじいさんのチャールズ・エドワーズさんは、第二次世界大戦中に日本軍の戦争捕虜だった方で、4年前の10月、外務省の「日豪草の根交流計画事業」(「一つの時代の終わり」参照)で68年ぶりに日本の土を踏んだのだった。そのエドワーズさんの付添人として同行して来たのが孫娘のキャロリンさんだった。
当時私は任期付きの職員として外務省のオーストラリアを担当する部署で働いており、元戦争捕虜の皆さん受け入れの担当者としてエドワーズさん、そしてキャロリンさんに会ったのだ。その来日時、エドワーズさんは自らが昔収容されていた山口県の大浜(現在の山陽小野田市)を訪問し、私も同行させてもらったので、キャロリンさんとも親しくなることが出来た。
実はそのエドワーズさんから、彼が来日をする前にメルボルンの総領事館を通じて一つ依頼が入っていた。それは戦争中にエドワーズさんがひょんなことから手に入れてしまった日本兵が所有していたあるアイテムを、その日本兵、あるいは家族の方を探して返却してもらえないか、という依頼だった。
この手の、所謂「戦時遺留品」を、本人や遺族に返したい、という案件はオーストラリア-日本間だけでも相当数あり、民間の有志やメディアが動いて関係者を探すこともあるが、外交ルートを通じて、となると在外公館から外務省本省、そしてそこから厚生労働省へ伝達される形で調査が行われる。戦時遺留品は、私の経験では出征時に寄せ書きをしてもらった日章旗が多かったが、その時エドワーズさんが依頼してきたのは若い日本人女性が写っている「一枚の写真」だった。
エドワーズさんは日本に移送される前は現在のシンガポールのチャンギなどの収容所にいた。
ある時どうしても何かを書き留めたくて筆記用具を手に入れたいと思った。収容所ではそのようなものも自由に所有することが出来なかったわけである。ある日、たまたま近くにいた日本兵が脱いだ上着のポケットに鉛筆が入っているのが見えた。いろいろ考えあぐねた末に一瞬だけその鉛筆を拝借しよう、と日本兵が別の方向を向いている間にその鉛筆をポケットから抜き取ったのだ。
ところが、見つかると大変なことになるのでとても焦っていたエドワーズさん、ポケットの中に入っていた一枚の写真を一緒に掴んでしまったのだ。しまった、と思い、写真だけポケットに戻そう、と試みるも、そこを見つかれば更にややこしいことになる。逡巡している内にその日本兵は上着を持ってその場を立ち去ってしまったのだそうだ。
その時からエドワーズさんはずっと、もしこれがあの日本兵の奥さんだったら、恋人だったら…あるいは妹だったら…どんなにか彼はその写真を失くしてしまったことを悔やみ、悲しんでいるだろうと、とにかく申し訳ないという気持ちを抱きつつ、写真を保管してきたのだった。それが68年ぶりに自身が来日をすることになり、チャンス到来。旅の段取りをしていたメルボルン総領事館の担当者にその写真を託し、本来あるべきところに返されるように依頼をしたのだった。
依頼を受けた職員は、写真のプロフェッショナルな感じから、ひょっとして女優さんのブロマイドかも、と思い、彼なりにネットで検索してみたものの、わからず、本省にいた私のところに正式な依頼を送って来た。
確かにパソコン上で画像を見ると、写っている女性が女優さんっぽい美しさだ。
少々探偵のような気分で写真の裏の画像を見ると…そこにはメッセージが書かれていた。と、私の目に飛び込んできたのは「ヒデ子の瞳と共に、貴方への幸福を!」という一文だった。
ああ!これ、高峰秀子のブロマイドじゃない?と即座に思った。早速ネットで検索。ズバリだった。興奮しながらメルボルン総領事館の担当者に連絡したところ、は?という反応。明らかに私より若い彼はなんと高峰秀子のことを知らなかったのだが、それはともかく、エドワーズさんが68年間、気に病みつつ大事に、大事に保管してきた写真は日本兵と直接縁のある人のものではなく、慰問袋に入れられて日本兵に届けられた高峰秀子のブロマイドだったのだ。
そのことを私は「調査結果」として来日したエドワーズさんに直接伝える段取りをしていたのだが、この写真のことが相当気になっていたエドワーズさん。エドワーズさんの山陽小野田訪問に尽力した市役所の若い担当者にもその写真を見せて同じ話をしていた。その担当者が家に帰って家族に画像を見せたところ、彼のおばあさまが、これ、高峰秀子じゃない!とおっしゃり、瞬時に落着。翌日彼からエドワーズさんに写真の「真実」が伝えられた。
それを聞いたエドワーズさんの顔に安堵の色と、笑顔が浮かんだのは言うまでもない。その場全体のムードが一気に和み、笑いに包まれた。一つの区切りが着いたのだろう。山陽小野田からの帰途、新幹線のホームでエドワーズさんはその貴重な写真をPOW研究会に寄贈したい、と同行していた同会の笹本妙子事務局長に託された。68年間持ち続けてきた写真との別れであり、68年抱えて来た申し訳ない気持ちとの別れでもあったのだと思う。
高峰秀子。さすがに私も名前と、熟年になられてからの姿、そして昭和の大女優だったという事実ぐらいしか知らないが、実は最近になって彼女の名前のツイッターアカウントに偶然行き当った。どなたが管理しているアカウントかは不明だが、彼女が生前にインタビューなどで語った言葉がツイートされているようだ。エドワーズさんのエピソードを通じて少々縁を感じていたので、そのアカウントをフォローするようになったのだが、ある時こんなツイートが上がって来た。
その慰問袋から飛び出した彼女のブロマイドが、遠くオーストラリアの地で大事に保管されていたなんて…。きっとそんなこと、彼女は想像だにしなかっただろう。
私はエドワーズさんのことを、今教えている大学の授業でも日豪関係を語る時に取り上げており、この写真のエピソードも紹介しているのだが、今年「この一枚の写真の話で、一本の映画が作れそうだ」と感想を書いて来た学生がいた。正に。そんな筋書きの脚本を、昭和の大女優はどう読んだだろうか…。想像は膨らむ。
※ブロマイドの画像は、POW研究会 笹本事務局長のご好意によりデータを頂戴し、掲載させていただきました。