一つの時代の終わり

 ちょうど一ヶ月ほど前の1月26日(木)は「オーストラリア・デイ」で、オーストラリアの国民の休日だった。1788年の1月26日、英国からの移民の第一船団が現在のシドニー湾に到着した日に因んだこの日が、近年物議を醸していることは去年このブログで触れた。(「過ぎ行く夏」「春が来た!春が来た!」)英国側から見るとオーストラリア大陸への入植の始まった日であるこの日は、その大陸に何万年も前から住んでいた先住民の人たちにとっては侵略の始まった日となる。先住民の人たちの権利が回復されればされるほど、この国民の休日は危うい日となってきている。
 今年は西オーストラリア州の港町フリーマントル市が、毎年「オーストラリア・デイ」に上げていた花火を中止することを決定。一部の市民にとって祝うべき日ではない「オーストラリア・デイ」に市の予算をかけるべきではなく、その予算は市民のための別のイベントに使うべきだ、と判断されたのだ。当然この決定には全国レベルで賛否両論が湧き起り、それに触発されて、逆にことさら強調して「Happy Australia Day!」とSNSに綴る人たちが今年は多く見られた。
 また一部には、先住民の人たちから見たその日の意味を十分に承知しつつ、「オーストラリア・デイ」を別の日に移すことには慎重な姿勢を示す人たちもいた。別の日に移動させてしまったら、1月26日が歴史と切り離されてしまい、その日に侵略が起こった事実も忘れ去られてしまうのではないか、という懸念からだ。なかなかこの議論にストレートに一つの答えを出すことの難しさを改めて感じさせられた。

 そのオーストラリアにとって特別な日に、今年私は偶然にも都内でオーストラリアからの特別なお客様たちに会う機会を得た。一行は外務省が行う「日豪草の根交流計画事業」と呼ばれるプログラムの招へいで来日した方たちだ。
 このプログラムは外務省が2010年度から毎年行っているものだが、先の大戦時に日本軍の捕虜となったオーストラリアの人たち、及びその家族を招聘するものだ。日本の人たちにとっては、太平洋戦争は米国と戦った戦争であり、オーストラリアとも戦っていたという印象は薄い。益してや、日本軍の捕虜になった人たちがいたという話はあまり知られていないが、戦時中の体験から、今でも日本に対して複雑な感情を抱くオーストラリアの人たちは少なくない。従って、元捕虜と家族の人たちを日本に招くことで和解と友好を図り、更なる両国間の理解を促進することを目的としているのだ。
 毎年来日された皆さんは東京では外務省や名所を訪れ、その後京都や広島、また日本国内にあった捕虜収容所に収容されていた人たちは、その捕虜収容所のあった地などを訪れる。そして、その合間を縫ってやはり毎回東京滞在中に開催されるのが、捕虜問題に関心を持つ一般市民の人たちとの交流会だ。
 交流会の主催は「元捕虜・家族と交流する会」だが、その中心となって交流会を運営をするのは「POW研究会」(注:POW=Prisoner of War・戦争捕虜)という2002年に発足した民間の研究グループの人たちだ。私もこの会に数年前から参加をしており、今年は偶然オーストラリア・デイに開催された交流会でオーストラリアの人たちに会うことが出来たのだ。

元オーストラリア捕虜とその家族の皆さんとの「市民との交流会」の模様


 毎年同様、まずはゲストの皆さんから一言ずつ捕虜の体験、また元捕虜の家族としての体験を語ってもらい、休憩を挟んで質疑応答、という式次第だったが、今年はこれまでとは明らかに趣きが変わっていることがあった。それはメインの招聘者4人の内、元捕虜の方はお一人だけだったことだ。他の3人の方は元捕虜の未亡人でいらした。
 これは当たり前のことではあるが、年々対象の元捕虜の皆さんが高齢化。来日を希望されていても体調不良で果たせなかったり、実際に亡くなってしまわれた、ということも起こって来た。昨年4名の方全員が90歳を越えておられるのを見て、いつまで元捕虜の方ご本人たちに来てもらえるのか、と思ったが、やはり今年はぐっと減った形になってしまった。戦後72年、当然と言えば当然のことで、一つの時代の終わり、ということが言えるのだろうか。

 そのようなことを私が特に強く感じたのは、実はその同じ週、同様に「一つの時代の終わり」を感じる出来事を体験していたからでもある。
 オーストラリア・デイの1日前、私が最初にオーストラリアに住んでいた1970年代からの知り合いのMさんが亡くなった、との一報が入ったのだ。Mさんは私の父の勤める日本企業のシドニー支店で現地採用の日本人職員として働いていた人だった。オーストラリア人と結婚をされていて、私の子供時代もさることながら、会社員時代にオーストラリアに遊びに行った時、また2003年に留学してからはお正月などにお宅に招いて下さって、随分とお世話になった方だった。

 そのMさんが所謂「戦争花嫁」という括りの女性だった、ということに気づいたのは、大人になってからのことだった。だんなさんのKさんは元軍人で、飛行機の整備をする技術者だったので戦場に出たのではなかったそうだが、恐らく朝鮮戦争の折に日本に駐留した際に2人は出会ったのだろう。 Mさんは昔からいろいろと型破りな女性で、歯に衣着せぬ物言いで私の父もタジタジだった模様だが、Kさんとの結婚に関しても、実際に彼女が渡豪をして結婚をするまで2年の猶予期間を置くという条件を彼女の方から出したのだそうだ。よって、Kさんは一旦帰国。それから2年の間ずっと手紙を出し続けたのだそうだ。そう、メールを送る、などということは出来なかった時代の話だ。その手紙には、彼女がオーストラリアにやってきてから困らないように、オーストラリアの生活事情、社会情勢、そして英語のことなどが丁寧に書いてあったのだとか。そのような結婚までの経緯や、彼女の個性もあって、一般的な「戦争花嫁」のイメージからは逸脱していたような印象が個人的にはある。
 Kさんは除隊後カンタス航空の整備士として働いてらしたが、Mさんと共々早めに仕事はリタイアされ、子供はいらっしゃらなかったので、二人でシドニー郊外の素敵な一軒家を大事に守りつつ今まで暮らして来られた。以前のブログ「裏庭の野鳥たちの“国勢調査”」で庭に集まって来る鳥たちに餌をやっている、と書いたのがKさん・Mさんのお宅のことで、ノイジーマイナーという鳥をご飯で餌付けをしたのが“型破り”なMさんのことだった。

Kさん・Mさんのお宅の庭の鳥たち


 今回連絡をもらって彼女が97歳だった、ということを知った。今年85になる父より少し上の方だとは思っていたが、一回りも上だったなんて。ちょうど元戦争捕虜だった人たちと同世代、か。
 何というか年齢を感じさせないエネルギッシュな方だった。私が40になってから留学を決断した時には、自分の人生を振り返って、一番血気盛んだったのは40代の頃だった、と言われて、多いに力が湧いて来たものだ。
 これまで40年超オーストラリアと関わってきて、ずっとそこにいらした人がいないというのは、私にとってははっきりと一つの時代が終わったことを意味している。それでもまだKさんが1970年代から変わらぬ家に住んでいてくれるのは私にとってはとてもありがたいことだ。ちょうど今月末から久しぶりに渡豪する。親しんだ家を目指して、Kさんにお会いして来ようと思っている。

Kさん・Mさん宅の満開のジャカランダ




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Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。