クイーンと「ボヘミアン・ラプソディ」とオーストラリア

シンコーミュージックのMusic Life誌1977年お正月号の表紙
シンコーミュージックのMusic Life誌1977年お正月号の表紙

 新しい年になって早くも二ヶ月半が過ぎてしまった。年度替わりも目前ということもあって、4月からの仕事の予定などを考えることが多く、自分が昨年の秋ごろに何を思い、何をしていたかすっかり忘却の彼方…となっている。しかし、一つだけその時分から現在に至るまで、継続して私の関心事の隅っこの方にずっと引っ掛かっているものがある。それは空前の…と言って良いのだろう…ヒットとなった映画「ボヘミアン・ラブソディ」である。

昨年5月15日に公開されたティーザートレイラー

 日本でこの映画が公開されたのは去年の11月頭だったが、直後からネット上のニュースやエンタメサイト、TwitterやFacebookなどは「ボヘミアン・ラブソディ」の話で溢れ返った。ラジオをつければNHKでさえもクイーンの楽曲を積極的に流し、アナウンサーやゲストが映画の話をし、どこかで店に入ればお馴染みのクイーンの曲、We Will Rock YouやBohemian Rhapsodyが流れて来た。
 Facebookではこれまでクイーンのクの字も言っていなかった友達がクイーンのことばかりを投稿しだし、応援上演への参戦も含めて2度3度と映画館に足を運んだことを報告する人たちもチラホラ出現。加えて、昔からの熱狂的クイーン、あるいはフレディファンや、1970年代にクイーンに感化され、自らもミュージシャンとなった知人も大絶賛。実在したカリスマ的人物を描く映画は、それを賞賛する声と同時に、事実と違うなど、批判の声も普通は多く上がるものだが、この映画に限っては、プロからもアマからもネガティブな評はほとんど聞かれなかった。
 クイーンのファン、洋楽ファンのみならず、ひょっとしてこの映画で彼らのことを知った??と思しき層の人たちなど、社会に広くこの映画や、クイーン、そしてフレディのことが浸透したらしいことの一つの証が、年明けに発売された「ビッグイシュー」の完売“事件”だ。今更説明は不要かもしれないが、「ビッグイシュー」は、ホームレスの人たちの支援を目的に発行されている雑誌で、ホームレスの人たち自らが販売者として街角に立ち、売り上げの一部が彼らの収入になる。元々は英国で始まったホームレス支援の取り組みだが、今では世界中に「ビッグイシュー」の販売網は広がる。毎号有名人へのインタビューなどが掲載されるが、表紙にもセレブたちが顔を出す。今回、1月15日号の表紙はフレディ・マーキュリー。インタビューは映画の中でフレディを熱演したラミ・マレックということで、その号が飛ぶように売れ、増刷するもまた完売。これはビッグイシュー史上初のことだったそうで、正に“事件”だったのだ。

ビッグイシュー日本版のホームページより(スクリーンショット)
ビッグイシュー日本版のホームページより(スクリーンショット)

 3月中旬現在、日本では回数は絞られたものの、主要館での上映がまだ続いているが、世界に目を向けると、まずはお正月明けにゴールデングローブ賞で最優秀作品賞(ドラマ部門)、最優秀男優賞(ドラマ部門)を受賞。

同映画のゴールデングローブ賞受賞を祝し、バッキンガム宮殿の衛兵も「ボヘミアン・ラブソディ」を演奏

 そして、2月24日には第91回アカデミー賞授賞式で主演男優賞、編集賞、録音賞、音響編集賞の4部門での受賞を果たした。オープニングでクイーン+アダム・ランバートの演奏もあり、公開が年の大分後半だったにも関わらず、2018年の映画界をこの映画が席巻したことを印象付けた。

2019年2月25日付米abcウェブページから(スクリーンショット)
2019年2月25日付米abcウェブページから(スクリーンショット)

 この世界的現象にオーストラリアももちろん乗り遅れてはいない。オーストラリアでの映画公開は日本より少しだけ早く10月末だったが、映画公開直後は、オーストラリアでも「ボヘミアン・ラブソディ現象」が起こっているのが伝わって来た。インターネットで向こうのラジオを聴いていると、国営、民放両方で出演者たちが「ボヘミアン・ラブソディ」観た??と言い合う場面に何度も遭遇した。ロックのスタンダードナンバーを終日かけているラジオ局でも、心なしかクイーンの曲が多くかかるようになった気がする。
 「ブルータスよ、お前もか」と思いながらその現象を傍観していたが、それから4カ月経った今でも、やはり「ボヘミアン・ラブソディ現象」は南半球でも続いている。これは、3月4日付のオーストラリアの音楽チャートARIAアルバムチャートだ。

ARIAのホームページより(スクリーンショット)
ARIAのホームページより(スクリーンショット)

 日本で言うとオリコンに当たるランキングだが、映画のサントラ盤が4位、クイーンのGreatest Hits(1981年)が5位、同じくベスト盤のThe Platinum Collection(2000年)が6位で、だんごで上位にランクインしている。サントラ盤は過去に1位も獲得していて、最初にチャートに入って来てから19週チャートインしていることが読み取れる。因みに、30位には「Greatest Hits II」(1991年)が入っている。
 サントラ盤は今年1月に2週連続で1位にランキングされた。クイーンの…というか、クイーン関連のアルバムが、オーストラリアで2週連続1位にランキングされたのは、1976年の「A Night at the Opera」(正に「ボヘミアン・ラブソディ」が収録されていた名盤)以来のことなのだそうだ。そして、私はその時のこと…ボヘミアン・ラブソディがオーストラリアで流行っていた40ン年前のこと…を記憶している。

 私は実はクイーンど真ん中の世代である。クイーンがデビューをし、世界的にビッグなバンドになっていった時に、ちょうどそれに並走するように所謂ポピュラーミュージック(しかも“洋楽”)を聴いて来た世代だ。クイーンが好きなバンドのトップだったことはないけれど、彼らはいつもそこに存在していて、当時の彼らのシングルカットされたような楽曲はいずれもよく知っていて、聴くとつい歌ってしまうほど身近な存在だ。にも関わらず、彼らが今大きな注目を集める中で、改めて彼らに纏わる記憶や思い出を思い起こすと、どうもクイーンずばりの記憶に乏しく、どこか微妙に“クイーンど真ん中”を外したものばかりだということに気付く。
 幸運なことに、私にはクイーンのライブ体験がある。大学時代だった、という以外に時期についての記憶は不鮮明だったが、ネットで調べてみると、1982年10月17日〜11月4日の間で行われた5度目の来日ツアーの時だったらしい。会場は今はなき「阪急西宮球場」だった。
 シンコーミュージックが2月14日に発行した MOOK「クイーン ライヴ・ツアー・イン・ジャパン 1975-1985」の解説記事によると、「10月24日の阪急西宮球場公演は、開催が危ぶまれるほどの強風の中、メンバー、オーディエンスが一緒になってたいへんな盛り上がりをみせた。この日のコンサートは後にブライアン・メイがベストアクト!と語ったほど」とあるが、実は私は彼らのパフォーマンスのことをほとんど覚えていない…。
 覚えていることと言えば、座席が西宮球場の阪急サイドのダグアウトに近いところだったことと、終演後にパンフレットを買おうとして人の波に揉まれ、死にかけた(?)体験をしたことのみだ。帰り際に買おうとしたのは、恐らくその日のライブに感動をして、これはパンフレットを買わなければ、と思ったからだと思う。ところが、そのように思った人が多かったのか、場外のパンフレット売場は激混みで。なかなか近づけないどころか、既に購入した人が駅の方へ行こうとする流れとがぶつかりとにかく押されて自分の意思で動けなくなってしまった。だんだん酸欠状態陥って行くように感じ、命からがら阪急電車に乗り込んで帰途に着いたのが、私の後にも先にも一回切りとなったクイーンのライブ体験の記憶なのだ。肝心のパンフレットを買ったのかどうかの記憶がないのだが、今探してもないところを見ると、どうも途中で諦めたのだと思われる。
 レコードにしてもどうもズバリの買い方をしていない。初めて買ったのは「ボヘミアン・ラブソディ」が入っている「A Night at the Opera」、と言いたいところだが、実は「Let Us Cling Together(手を取りあって)」のシングル盤だった。中学2年の終わり頃だと思うが、中3になってから体育の創作ダンスのクラスでB面の「Old Fashioned Lover Boy」で踊った記憶がある。「ボヘミアン・ラブソディ」はシングル盤でしか持っていない。


 アルバムは1979年にリリースされたライブ盤「Live Killers」が最初に手にしたクイーンのアルバムだ。クイーンの好きな曲が入っているアルバムを全部買う、などということはどう考えても当時のお小遣いで実現出来ることではなかった。が、ライブ盤であれば珠玉のヒット曲が全部収められているではないか、ととても悦に入って購入したのを覚えている。

今も実家のレコードラックに眠る「Live Killer」
今も実家のレコードラックに眠る「Live Killer」

 しかしながら、やはりファンとしての王道はスタジオアルバムを買うことだったので、邪道に走った感は否めなかった。結局正当?なスタジオ録音アルバム、ということになると、なんと1991年の「Innuendo」まで手にすることはなかったのだ。アルバム発売の前辺りからフレディの健康不安が伝えられていて、これは早くちゃんとアルバムを買って、ちゃんとクイーンというバンドを正面から聴かないと、思ったことがきっかけだった。70年代から好きだった者としては遅きに失しているとしか言いようがない…。
 今回の映画の中で“聖地”のような描かれ方をしているロンドンのウェンブリースタジアムについても、私の記憶はズバリを外す。私にとってクイーンとウェンブリーと言えば、それは「Live Aid」のコンサートではなく、1992年4月20日に開催されたフレディの追悼コンサート、なのである。WOWOWで生中継だったか、録画での全編の放送があり、WOWOWへ加入している友人がVHS(ビデオテープ)に録画してくれて、それを繰り返し再生して、それこそテープが擦り切れそうになるまで観たものだ。そこで記憶に残っているのは、当時脂がのりにのっていたガンズ・アンド・ローゼスのアクセル・ローズのパフォーマンスでありエクストリームのゲイリー・シャロンとヌーノ・ベッテンコートによる、クイーンの「Love of My Life」とエクストリームの「More than Words」のバラードの名曲2曲の圧巻のメドレーだ。

エルトン・ジョンとアクセル・ローズによる「ボヘミアン・ラブソディ」

 デイヴィッド・ボウイとアニー・レノックスによる「Under Pressure」のパフォーマンスも異彩を放っていて強く印象に残っている。そう、当たり前だが、これは既にフレディ亡き後のことで、フレディ不在、フレディを擁するクイーン不在のウェンブリーが、私にとってのウェンブリーとクイーンを繋ぐ記憶なのだ。

 こうやってクイーンと自分の来し方(オーバーだが…)を振り返ってみると、そもそも私はクイーンと出会った時もちょっと変則の出会い方をしていることに思い至る。先ほど、私は「ボヘミアン・ラブソディ」がオーストラリアでヒットしていた時のことを記憶している、と書いた。その記憶、というのは、クイーンと、ABBAと、そして地元オーストラリアのバンドSherbetが三つ巴でチャートの上位を賑わせていた、というものだ。
 本当にそのような展開だったのか…既に中学生だったとは言え、子どもの頃の記憶だ。実際はどうだったのだろう、と検索をしてみたところ、あながち私の記憶は間違ってはいなかったようだ。この「ボヘミアン・ラブソディ」がリリースされた1976年、オーストラリアの音楽チャートはとにかくABBAに席巻されていた。日本でも有名な「ダンシング・クイーン」もそうなのだが、それよりも、その一つ前のシングル「Fernando(悲しきフェルナンド)」が爆発的にヒットし、今記録を見ると、14週もヒットチャートのトップを独占している。「ダンシング・クイーン」の8週と合わせると、それだけで22週。他にも「Money, Money, Money」などが1位を獲得しているため、この年のオーストラリアの音楽チャートはほとんどABBA一色だった、と言っても過言ではない。
 「Fernando」は、実は3月にトップに着いた「ボヘミアン・ラブソディ」を2週でトップの座から追い落した曲だ。そしてその後長期政権となった「Fernando」を15週目に引き摺り下ろしたのが、Sherbetの「Howzat!」という曲だった。

 Sherbetは当時「南半球で最大のバンド」とも称されたバンドで、とにかく絶大なる人気をオーストラリアで誇っていた。私もご多聞に漏れず彼らの一挙手一投足を追い(とは言え、追い駆けはしていないが…)、「Howzat!」が収録されている同名のアルバムを繰り返し聴いた。お金こそ親に出してもらったが、自分の意思で選んでアルバムを手にしたのは、その時が初めてだった。当時このバンドにはまったのをきっかけに、40年後の今まで、所謂洋楽のロック・ポップスを聞き続けることになったのだ。
 そのような自分の原点がある年が1976年であり、その年のことを思い起こすと、自然とクイーンと「ボヘミアン・ラブソディ」のことも思い出すのだ。クイーンも、「ボヘミアン・ラブソディ」も私にとっては、オーストラリアの記憶と共にあるバンドであり、曲なのだ。クイーンのことを記憶するには、ちょっと外した記憶の仕方なのだけれども。

 ところで…。肝心の映画「ボヘミアン・ラブソディ」だが、実はこの映画の鑑賞も、私は“ズバリ”を外してしまっているのだ。諸般の事情で昨年公開直後に観に行くことが出来ず、その後もなかなか機会が訪れず。結局、今年になって2月の頭にオーストラリアへ行った際に、帰りの飛行機がデイフライトだったために、その機中のエンターテインメントで観てしまったのだ…。
 やはりあんな小さな画面で観るものではなかった。多分そのせいで…そして、これまで周りから余りにもいろいろ聞き過ぎていたからなのか、今一つ十分な感動を得ることが出来なかった。これはマズイ。幸いなことに、まだ近くで上映している映画館もあるので、早急に仕切り直しをしたいと思う。いつまでもクイーンに関しては外しっぱなし…、という訳にはいかない。





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Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。