乾いた大地の桜の話

 三月の終わりから四月の頭にかけて、日本列島は“桜狂騒曲”とでも呼べる現象に見舞われていた。確かに桜は私が生まれた頃にだって愛でられていたし、花見、というのも晩冬、初春の風物詩だったけれど、こんなにも開花宣言への注目も含めて、騒いでいただろうか。私は元来人混みが苦手で、花見にほとんど出掛けた経験がないから、昔の印象が薄いだけだろうか。
 そんな私も、今年は気が付けば友達に誘われて、六義園、新宿御苑、代々木公園、鎌倉そして秩父・長瀞へ、と、ほぼ意図せず桜の追っかけをしているような状態になってしまった。

代々木公園
新宿御苑
鎌倉建長寺



 各所とも大変な人出だったが、非常に多くの外国からの観光客と思しき人たちに遭遇した。“花見シアター”は、アジアに限らず世界各地の言語が飛び交う、正に多国籍・多言語空間と化していた。こんなにいろいろな人たちに、いろいろなやり方で愛でられて、桜たちも驚いているのではないだろうかなどと思ったが、そうこうしていたら遂に、オーストラリア国営放送ABCのニュースにも花見レポートが登場したのだ。ABCよ、お前もか。


桜の木の下で酔っぱらいつつ、桜を楽しむ人々の様子などが東京特派員によってレポートされていた。
 そのようにオーストラリアでも知る人ぞ知る日本の桜の季節。実は私の友人のキャロリンも、ご主人とまだ八か月の赤ちゃんを連れて三月末にわざわざ桜を観に日本にやって来たのだ。都庁の展望台と、“ホンモノ”の寿司屋でのランチへ付き合うことになり、待ち合わせ場所を決めるためにどこに泊まっているの、と聞いた。そうしたところ、目黒のAirbnbとの答えが返って来た。目黒かぁ、どの辺かなぁ、駅は近いんだろうか…といろいろ想像が巡り、しかし目黒とは…つまり、新宿とか渋谷とか、あるいは品川とかターミナル駅の周辺ではなくて目黒とは、私の個人的な感覚かもしれないが、渋いところに宿を取ったもんだ、と思った。
 その後無事に落ち合うことが出来、再会を喜びつついろんな話をしていて、なんと、彼女たちはちゃんと計算して目黒に宿を取ったのだという事実を知った。そう、彼女たちはあの目黒川の桜を目指してこの時期日本旅行を計画したのだった。そこまでホンモノの花見を体験するために日本へ旅行するのが、オーストラリアの人たちの間でも人気になっているとは知らなかった。

 ところで、海外の桜並木と言えば米国のワシントンが有名だが、オーストラリアにも桜並木がある場所がある。シドニーから400キロほど西に入った地にある町、カウラである。カウラ、と言えば日豪友好のシンボルとして語られることが多い町であり、知っている人も多いと思う。太平洋戦争中この地には日系の戦争捕虜の収容所があったが、1944年8月5日に脱走事件が起こり日本人・日系人231名、オーストラリア人4名が死亡。戦後、カウラの地で命を落とした人に加え、オーストラリア各地で亡くなった日本縁の人たちの遺骨が集積された日本人墓地が作られ、1979年には日本庭園が完成した。そして、その日本庭園では毎年9月の終わり頃、つまりオーストラリアの春に「桜まつり」が開催されているのだ。

2015年のカウラ日本庭園での桜まつりの模様


 そのカウラの名前が突然NTVの「ズームイン!朝」から流れて来るのに遭遇したのはもう30年近く前、私がまだ一般企業で所謂OLをしていた1988年のことだ。何でもカウラで桜の木を植えるプロジェクトが立ち上がり、一般からの寄付を募っている、というニュースだった。1988年はオーストラリアにとって英国のオーストラリア大陸への入植が始まって200周年に当たる年で、その記念事業としてカウラに1988本の桜を植えよう、というプロジェクトだった。
 即座に、私も一本カウラに桜の木が欲しいと思った。しかし、一本10万円である。大金だ。さぁ、どうする、と考えていた時に頭に浮かんできたのは、1970年代に通ったシドニー日本人学校の同級生の皆の顔だった。実は私たち「7回生」は6年生の時にカウラを学校の研修旅行で訪れている。

1974年 カウラ日本人墓地にて



 きっと私と同じようにオーストラリアの大地に自分たちの桜の木を、と思ってくれる人がいるんじゃないか、と思った。10万円は大金。でも、1口5、000円にすれば…。
 早速皆に手紙を書いてお願いをしたところ、何とあっという間に20名を越える同級生、そして当時の担任の先生たちからの寄付金が集まってしまった。目標達成!当時のニューサウスウェールズ州政府東京事務所に申し込みをしたところ、ほどなく先方より感謝状と、私たちの桜の木とネームプレートの写真が届けられた。



 これで私たち7回生のプロジェクトが完結したのだが、やはりこれは実際に私の目で見て来て、皆に報告をしなければ、と思い、90年代に入ってからカウラを再訪した。元捕虜収容所跡と現在の日本庭園を繋ぐ通りは「Sakura Avenue(サクラ通り)」と命名され、その沿道にナンバー64の私たちの桜の木は立っていた。


 オーストラリア特有の赤い大地に植えられた桜は八重桜。とにかく乾いた大地なので、八重桜が選ばれたと聞いたことがある。まだ花をつけるまで成長していなかったが、とにかく記念撮影をして、参加をしてくれた同級生に報告をすることが出来た。
 その後少しカウラの桜の話から私の関心は遠ざかっていたのだが、折々に断片的な情報に触れる機会があり、桜を1988本植えるプロジェクトが21世紀に入ってからも細々と継続していることは知っていた。寄付金がなかなか集まらないこともあったのだろうし、やはり難敵はオーストラリアの乾燥した土地だったようだ。当初から懸案だった灌漑施設の整備が難航したり、一年の内桜を植えられる時期が限られていて、一度に多くの木を植えられなかったりするためになかなか進まないのだ、という話を聞いたこともあった。
 そして3年ほど前現状についての情報を得ることが出来たのだが、なんと、どうも私たちの木を含め多くの「サクラ通り」沿いの木が枯れてしまったようで、その復元作業をしている、ということだった。残念は残念だが、あの気候だとさもありなん、と思うと同時に、何と言ってももう30年近くも経っているのでそういうこともあろう、というのが正直な感想だった。復元作業をしてくれている、というのだから、その言葉に期待をするしかない。
 オーストラリアはとにかく大きな国で、私のように長年在住していても、そしてその後も毎年のように現地へ行っていても、足を延ばせる場所は限られてしまう。そのような事情でカウラには90年代以来ご無沙汰をしてしまっているが、近い将来また訪豪する際にはなんとかカウラまで辿り着いて、この目で「サクラ通り」の様子を見て来たい。復元作業がどの程度進んでいるのか、いないのか。どうものんびりさんのオーストラリアの人の報告には任せてはおけないような気がしているのが本心である。
 さて、乾いた大地の桜並木は、復活なるだろうか。

※カウラの日本庭園の写真は、国際交流基金シドニー文化センター前所長遠藤直さんが2015年に撮影されたものを拝借しました。



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Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。