クジラ狂騒曲①「メルボルンと捕鯨の関係の謎」

 先月末、久しぶりにあの海洋環境保全団体の「シーシェパード」(SS)に関するニュースを目にした。説明するまでもないかもしれないが、10年程前から、日本の南氷洋での調査捕鯨に体当たりの抗議活動?妨害?を行ってきた団体で、近年では和歌山県の太地町にも乗り込んで、イルカ漁への抗議運動を行っている。
 そのSSを、2011年、調査捕鯨を実施している日本鯨類研究所と共同船舶が、妨害行為差し止めのために米国の裁判所に訴えていたのだが、今回和解が成立したとのことだった。何でもSS側は「永久的に妨害行為」を行わないことに同意し、日本側は和解金を相手に支払うという形での和解だったらしい。
 これで南氷洋上での船同士の一触即発な危険な状況は回避できるとホッとしたのだが、すぐにSSは、南氷洋での抗議活動はオーストラリアを拠点とする「SSオーストラリア」が実施している。SSオーストラリアの活動は米国での裁判結果には縛られず、これからも活動を続ける、と宣言した。そして、裁判が終わるタイミングを待っていたかのように、8月30日に新しい船「Ocean Warrior」を披露。今年もやる気満々な感じが伝わってきている。

シーシェパードの新しい船 (Maritime Executiveウェブサイトより)

 果たして、SSの言っていることは本当なのだろうか。もしそうだとすると、日本側は裁判を起こす相手を見誤っていたということになるのだろうか…。行方が気になるところだ。

 ところで、オーストラリアは現在反捕鯨国として国際的に知られているが、昔は捕鯨をしていた国だ。オーストラリアの観光産業の柱の一つにホエールウォッチングがあるが、それは取りも直さずオーストラリア大陸の周りに鯨が多く生息しているということで、今はその鯨たちをウォッチして楽しんでいるが、昔は捕獲、利用していたわけだ。そもそも英国がオーストラリア大陸に植民しようと考えたいくつかの理由の中に、オーストラリアが捕鯨に適した地だということもあった。
 現在の所謂捕鯨論争の中でそのことが言及されることはあまりないが、昔捕鯨地だった地に足を運ぶと、色々な形でその歴史が遺されている。一番正式な形で残っているのは博物館で、西オーストラリア州のアルバニーにある「Historic Whaling Station」と、ニュー・サウス・ウェールズ州とヴィクトリア州の州境の街エデンの「Eden Killer Whale Museum」(注:Killer whaleはシャチのこと)が有名。特に前者は世界的にも珍しい、旧捕鯨基地をそのまま博物館に転用したもので、鯨油のタンクや、鯨を解体したデッキなど実物が残っている。
 他にも、一部がグレートオーシャンロードで有名なヴィクトリア州の南海岸沿いを行くと、あちこちの街で捕鯨の形跡を発見することが出来る。ポートランドの海岸を見下ろすベンチのあるエリアには、鯨油を煮出した窯が何気なく置かれていたり、ポートキャンベルは、キャンベルさんという捕鯨船の船長の名前に由来があったり…。また、タスマニア州はホバートを中心に植民地時代に一大捕鯨地だったので、あちこちに捕鯨の歴史を記す看板などが設置されている、と知人が教えてくれた。
 そんな中でちょっとユニークなのがオーストラリア第二の都市で、世界一暮らしやすい都市と称されるメルボルンだ。メルボルン市はフィリップ港の一番奥まったところから更にヤラ川を上った場所にあるので、メルボルン自体に捕鯨基地があったとはちょっと考えにくい。ところが、なんとメルボルン市の正式な紋章には鯨が描かれているのだ。

メルボルン市HPより

 この紋章がメルボルン市の紋章に正式になったのは1940のことだが、そのデザインはそのずっと前、メルボルンが設立された直後の1840年代から市の封緘時の印として使用されてきたものである。メルボルン市やヴィクトリア州立博物館の説明によると、この4つのシンボルが表わすのはメルボルン市が設立された当時の3大輸出物、羊(羊毛)、牛(牛脂)、鯨(鯨油)、そして、これをメルボルン港から運び出した船とのこと。つまり、メルボルン市の歴史的原点を表わしている、と言うことが出来るだろう。

 と、ちょうどこの辺りまで書きかけていたところ、正にこの紋章に纏わることがメルボルンのラジオ局のウェブサイトで取り上げられているのに遭遇した。ある人がメルボルンに旗があるの、知ってた?こんなに酷いもんなんだ、とRedditというSNSに投稿したのをメルボルンのラジオ局が取り上げ、自身のウェブサイトとフェイスブックに掲載した。
 曰く「メルボルンにも旗があった!それが本当に本当に酷いんだ!これはがっかり…」。

ラジオ局「Fox HIT 101.9」のフェイスブックより

 がっかりの理由が、鯨が入っていることなのかどうかはこの記事を読んだだけではよくわからない。どうも全体的にセンスが悪い、という意味で酷い、と言っているようだが、同時にこの投稿についたコメントを見ると、羊をこんな風にベルトで吊り下げて、運んでるなんて…、と現在の動物愛護の基準に照らして、動物の描かれ方を酷いと思う向きもあるようだ。がっかりしている時に悪いが、いや、これはあなたの街の旗であるだけでなく、正式な紋章ですよ、そしてあなたの街の歴史を語るものなのですよ、と教えてあげたい…。
 実はこのメルボルン市の紋章に鯨が描かれていることは、私の周りでも認識している人はとても少なかった。メルボルン在住時に現地の友達何人かにその話をしてみたが、はっきりと知っていた人は少なく、知っていてもその意味を深く考えたことがあった人にはついにお目にかからなかった。まぁ、住んでいる町のシンボルなんてそんなものなのかもしれないが…。
 ただこの紋章とシンボルの羊、牛、鯨、そして船にはメルボルン市の中心にある市庁舎へ出向くと、あっちでもこっちでも行き当るのだ。




市庁舎の前の歩道にも4つのシンボルが埋め込まれている。




 更に、市庁舎の前の道を少し南に下るとメルボルン市を流れるヤラ川にぶつかるが、そのヤラ川にかかるプリンセス・ブリッジの各柱には市の紋章があしらわれているのだ。

 この場所はメルボルンの中でも、観光客を含めて多くの人が行き交う場所だが、紋章の細部にまで目を止める人はそうおらず、止めても、そのシンボルの由来に思いを馳せる人はそうそういないだろう。
 かく言う私も、何度も市庁舎の前やプリンセス・ブリッジを通って、鯨が視界に入ってきたこともあったが、日本人の友達に教えてもらうまで、それが市の紋章であることには気づいていなかった。その友達は地元の学校で教えていて、ある時社会見学で生徒を連れて市内に来た際に、案内してくれた市の人だったか、歴史勉強会の人だったかがプリンセス・ブリッジで紋章を指しながら、その由来を語ってくれたのだそうだ。
 それ以来メルボルンと鯨の繋がりに興味を抱いて、いろいろ調べて来たが、ではなぜ捕鯨基地があったようには思えないメルボルンがわざわざ鯨を紋章に採用したのか、という謎が解けていない。先ほど触れたかつて捕鯨で栄えたホバート市や、港には入植当時鯨がウジャウジャいた、との記録もあるシドニー市が鯨を紋章のデザインに取り入れていても不思議ではないが、両市の紋章に鯨は登場しない。それなのに、両市と比べると捕鯨との関係が薄く見えるメルボルンがなぜわざわざ鯨を紋章に採用したのだろうか。三大輸出物の一つ、ということだが、現物はメルボルン市にはないが、例えば鯨油の取引市場があったというようなことなのだろうか…。
 いろいろと想像の膨らむメルボルンと鯨の関係。もう少し追及してみたい。

プリンセス・ブリッジから臨むメルボルンの夕暮れ

 さて、オーストラリアと鯨・捕鯨の話、そして日豪の捕鯨論争の話はまだまだ沢山トピックがある。折りを見て「クジラ狂騒曲」シリーズとして、順次掲載していきたいと思う。



Read More from this Author

Yoko Harada

原田容子: オーストラリア・ウオッチャー。子供時代の一時期を父親の転勤にてシドニーで過ごす。以来オーストラリアとの交流が続き、2003年にそれまでの会社勤めを辞め、シドニー近郊のウーロンゴン大学に留学。修士号、博士号(歴史・政治学)取得。在メルボルンのディーキン大学で研究フェローを務めた後、2013年帰国。外務省の豪州担当部署に一年勤務。現在は個人でオーストラリア研究を継続する傍ら、大学で教える。